310)品川宿過ぎて六郷(多摩川)渡っても武蔵国 | 峠を越えたい

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 武蔵国と相模国の境目が気になります。東京都と埼玉県とを一緒にした範囲であると一般的には言われますが、どうもそうではないのです。更級日記作者の言う「あすだ川」が武蔵と相模の間を流れる川であるならば、多摩川(六郷川)を隅田川と間違えたのだろう、なんてことは成り立たないらしい。東の境界については、隅田川の両国橋を東へ渡ったら下総国です。『コンサイス地名辞典―日本編―』(三省堂、1975)を引いてみます。

 神奈川県北東部も入っています。すると多摩川(六郷川)を国境は渡ってしまうのでしょうか。川崎宿が武蔵国川崎とすれば、“六郷渡れば川崎の”「万年や」は武蔵国に存在します。興味が増したところで、『中学校社会科地図帳』(帝国書院、1950年)より、

 左上に「原町田」を取り囲むように東京都と神奈川県の境線(赤色)が描かれていますが、その南端(「大和」の右)から一点鎖線が南東方向へ走り、「金沢」の直ぐ南を通り、京急線に交わっています。この地図帳の凡例を見ると、一点鎖線は“国内国界”と説明されています。正に江戸時代以前のくに境でしょう。次に『新詳日本史図説』(浜島書店、2000年)より、

 これを見ても武蔵国と相模国の東京湾沿いの境界は横浜市に入り込んでいます。金沢文庫のある辺りも入っているので、試しに『金沢文庫』(Wiki.)に手掛かりを求めました。その「概要」のところに、

 “金沢(武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)は金沢流北条氏が領し、のちに館や菩提寺である称名寺を建立して本拠地として開発し、家名の由来となった地である。………”

 当ては外れませんでした。この大和市の東側から横浜市金沢区に至る武蔵国と相模国の境目はどんな風にして設定されたのでしょうか。昔は東京も横浜も同じ国だったんですね。武蔵国周囲の国境について、他の境目は今の都・県の境目と同じでしょうか。『武蔵国』(Wiki.)が説明してくれました。「現在の行政区分での領域」より、

  “・埼玉県

    ・旧中葛飾郡を除く全域[注 1]

  ・東京都

    ・特別区(23区)[注 2]

    ・多摩地域

  ・神奈川県

    ・川崎市

    ・横浜市

      ・大部分(横浜市のうち一部は相模国鎌倉郡に属していた[4][5][6][注 3]。「相模国#現在の行政区分での領 

        域」も 参照)。”

 東京23区の内、墨田、江東、江戸川、は江戸時代に武蔵国に入れて貰いました。今の埼玉県の中でその当時に武蔵国に入らなかったのは幸手、春日部、杉戸近辺らしいですが、常陸国とか下総国だったのでしょうかね。

 時刻表の路線図(索引地図)にて、旧国名が冠された駅名を拾っていけば、ある程度武蔵国の範囲を追えます。埼玉県の東北の隅から反時計方向に見ていきます。武州荒木駅(秩父鉄道;埼玉県行田市)、武蔵嵐山駅(東武東上線;埼玉県比企郡嵐山町)、武蔵横手駅(西武池袋線;埼玉県日高市横手)、武州日野駅(秩父鉄道;埼玉県秩父市荒川日野)、武蔵五日市駅(五日市線;東京都あきる野市)、武蔵小杉駅(神奈川県川崎市;南部線)、武蔵白石駅(神奈川県川崎市;鶴見線)。

 相模と武蔵の国境の不思議ですが、記されていましたよ、『相模国』(Wiki.)に。「武相国境」のところです。

 “境川上流部は武相国境(武蔵国との境)だった(現在は神奈川県と東京都との都県境)。

町田市鶴間・大和市下鶴間・横浜市瀬谷区五貫目町の境界点からは国境は境川から離れ、町田市鶴間・横浜市瀬谷区卸本町・横浜市緑区長津田町の境界点で東京湾相模湾分水嶺へ移った。なおその尾根道(武相国境道)は、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の辺りから(旭区瀬谷区の境)金沢区鎌倉市の境まで続いた[3][注 5]

横浜・横須賀・逗子境界標識点からは分岐し、侍従川(横浜市金沢区六浦)と鷹取川(横須賀市湘南鷹取・追浜本町)との間の尾根を通り、横浜創学館高等学校を通り東京湾に達した。”

 境川は相模原駅北~町田駅直ぐ南~つきみ野駅東~大和駅東~いずみ中央駅直ぐ東~藤沢駅直ぐ東を経由して、相模湾に注ぐ場所がちょうど江ノ島の真ん前です。『境川(東京都・神奈川県)』(Wiki.)はどう言っているか。

 “境川(さかいがわ)は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川二級水系の本流である。

河川名は上流域において武蔵国相模国の境界を成すことによるが、両岸とも相模国である下流域においては鎌倉郡高座郡の境界を成す。上流から左岸が武蔵国多摩郡(分割後は南多摩郡)・相模国鎌倉郡、右岸が相模国津久井郡・高座郡となる。”

 境川の源は高尾山の南東の山です。上流では武蔵国と相模国の国境を成しており、途中からは国境線は境川の東側に移って、分水嶺を通るとのことです。最初の地図の「原町田」(現・町田駅の直ぐ近く)と「大和」の中間辺りから国境は境川を離れています。

 国境の東京湾に達する辺りの地図です。

 “侍従川と鷹取川の間を通って横浜創学館高”との記載の位置関係が分かります。「金沢文庫」、「六浦」は武蔵国、追浜(おっぱま)は恐らく相模国です。しかしこの辺りが分水嶺になっているのでしょうか。。境川を武蔵・相模国境にすれば簡単なのに、中途からは川でなく分水嶺を国境に採った意図は分かりません。でもそうすると鎌倉、逗子どころか横須賀から三浦半島まで武蔵国です。

 さて、武蔵国と相模国の境目が一見東に移動したような感じで、東京都と神奈川県の境界が多摩川に持って来られたのは如何なる理由があったのかも気になる所です。横浜と神奈川宿を合わせて神奈川(県)にしたい時、境界としては多摩川が頭に浮かびそうですが。