311)環濠と土居の囲む町「平野」は摂津国に | 峠を越えたい

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 “昔々「平野」(ひらの)と言われていたんだよ、大阪のことは“と聞いた覚えがあるような気がするものの、「平野」という栄えた町が大阪にはあった、くらいのことだったのかも知れません。東日本人からすると馴染みのない地名なので是非知りたいです。幸いなことに駅名でも川の名にも今に残っているので取っかかり易い。場所はどこでしょう。1925年4月号『汽車時間表』(日本旅行文化協会)は大正時代後半のものなので駅名が疎らですから直ぐ分かります。

 

 関西本線(名古屋~亀山~奈良~天王寺~難波)で天王寺の少し奈良寄りに見えます。優等列車でも停まりそうな主要駅です。コンサイス地名辞典(三省堂、1975)を引きます。

 今の大阪湾がその昔はずっと東へえぐられていたと聞いています。海の入り江の東岸に「平野」は面していたのでしょうか。今からすると陸地の中の中ですね。同じ辞典より「大阪」も引っ張ってきます。

 「おさか」(小坂)が「おおさか」(大坂)に変化したというのは面白いです。上町台地北端の地名だそうです。上町台地とは大阪城辺りのことでしょう。近鉄の駅「上本町」はその名前に関係しているか、いないか。また同じ辞典に助けて貰います。

 上記文章からは分かりませんが、『大阪上本町駅』(Wiki.)で明らかになりました

 “大阪上本町駅(おおさかうえほんまちえき)は、大阪府大阪市天王寺区上本町六丁目にある近畿日本鉄道(近鉄)のである。

 上町台地の頂に達する位置であり、上町の中心の意から「上本町」と呼ばれるようになった。………”

 天王寺駅前のホテルに泊まった翌朝、北に向かってランニングしたらどんどん登り、難波宮跡、大阪城に辿り着いたのを覚えています。上町台地の中の「狭義の大阪」と「平野」の位置関係が掴めました。大阪湾のいっぱい東に湾入していた時代の地図が欲しいです。

 『水都大阪の歴史』(「水都大阪(AQUA METROPOLIS OSAKA)」)を見付けました。古い地図を3つ掲げてくれました。借ります。約1800~1600年前の地図を。

 今の海岸線も示してくれます。森ノ宮駅は大阪城公園の直ぐ南東に位置します。「森ノ宮」から北に向かって砂州が延びて、やがて河内潟が河内湖に成りました。卑弥呼の時代から仁徳天皇の頃です。大仙陵古墳の築造された頃の大阪はこんな景色だったんですね。

 「平野」の立地として、平野川の西岸、上町台地の東、天王寺の南東4㎞を頼りに地図を眺めます。

 「平野」の成り立ちについて、詳しくは『平野(大阪市)』(Wiki.)参照として、中の一部を。

 “平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の地区名。広義に坂上田村麿の子である坂上広野麿からひろのがなまってひらのと言う名称になったと言われていて平野区全体を指す場合もあるが、地区名としてはかつて環濠都市自治都市を形成していた平野郷町の本郷七町だった地区を指す。”

 近世には堺のような環濠都市を形成していたようです。コンサイス地名辞典の記述とも合わせて、堺に匹敵する町だったようです。『日本史小辞典』(山川出版社、2005)の「自由都市」では名前が挙げられています。

 平野が堺、博多、大山崎、堅田、大湊と並んで載っています。土居や環濠を設けた自由都市、平野には環濠の跡が少し残っているそうです。

 国道25号が大和街道(奈良街道)なので、その交通の要所であった「平野」の町を街道が貫いていたことになります。

 見付けました、平野の町絵図。『摂州平野郷図』(聖心女子大学図書館デジタルギャラリー)は江戸時代のものでしょうか。年代が分かりません。全体と東北部の一部拡大を掲げます。

 平野川に通じる船着き場が設けられています。周囲は環濠に囲まれており、「土居」とは堀の内側か外側に盛り土が成されていたのでしょうか。正に自由都市然たる風格です。

 一度も乗ったことのない関西本線に揺られて、降り立った平野の町を歩き回ってみたいです。歴史の重さを感じられるかも知れない。町中は古い町絵図の如くあれば素晴らしいですが。