309)「かわごし」は大井川のみに非ず | 峠を越えたい

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 「川越(かわごし)」は東海道五十三次に於いて“越すに越されぬ”大井川だけかというと、そうではありません。歌川広重作『東海道五十三次』の55枚の絵を眺めてみると川や橋が結構描かれていて、「川越」も「渡し船」も複数現れます。

 ところで、版画が飛ぶように売れて大変人気を博した浮世絵師の広重ですが、共同作業を担った彫り師や摺師の名前が後世に残らないのは可哀想です。

 戻って、その55枚の内で川に橋が掛かっている絵は日本橋、保土ケ谷、戸塚、藤沢、掛川、吉田、岡崎、四日市、土山、京師。全てが東海道そのものに掛かっている橋とは言えないかも知れません。渡し船は川崎、見附、荒井(?)、桑名です。「川越」は小田原、興津、府中、嶋田、金谷で描かれていて、嶋田宿、金谷宿は同じ大井川の渡しです。残り3ヶ所はどんな具合でしょう。  先ず小田原宿です。『東海道五十三次-Canon Creative Park』にてダウンロード出来ます。

 酒匂川とは好ましい名前です。小田原で生まれた二宮金次郎の生誕地が酒匂川の流れに近いのでした。小田原市>小田原デジタルアーカイブ>浮世絵で読む小田原の歴史>「酒匂川の渡し」を見付けました。最初の文章を拝借します。

 “江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは、旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であった。東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。
(岩崎宗純)
………”。

 一つ解決。次は興津宿。Canon Creative Parkより、

 「興津川」と書かれています。『興津川水系』TOP>歴史文化>歴史に紹介されています。

 “江戸時代には東海道や身延道などの街道が通り興津、由比、蒲原は宿場町として栄えたことから、この地域は本陣跡などの名所・旧跡が残されています。東海道五十三次では、興津は17番目の宿場町で、大井川と同じように東海道興津川越しが行われていましたが、現在では興津東町公園内に川越し(川会所)跡が残されています。”

 「川越遺跡」の説明を読めるように案内板の右半分を取り出しました。連台または人足の肩車で川を渡りました。川の深さ>4尺5寸で川止め。136cm余りですね。大井川の川越でも4尺5寸を越えると川留めだそうです(島田市観光協会ホーム>観光情報>大井川川越遺跡より)。「川止め」と「川留め」の両方を使うのでしょうか。

更に府中宿です。

 「府中」の左脇の字は拡大してみると「安部川」と読めます。でもふつう「安倍川」ですね。『安倍川水系の歴史|しずおか河川ナビゲーション』>安倍川水系TOP>歴史文化>歴史ではこのように述べられていました。

 “………とくに江戸時代以降、安倍川の川越人足、安倍川の上・中流域で伐り出した材木や炭などを筏や舟で運んだ筏人足や舟人足、安倍川の増水で川留めとなった旅人のため茶屋や宿、安倍川に流した材木を集める木場人足や材木商人など様々な職人や職業が生まれ、人々の暮らしと川との深い関わりを強めていきました。一方で古くからあった安倍川の渡し船は江戸時代の川越制度により禁止され、明治期まで架橋ができなかったり、交通路としての舟運も道路交通の発達に伴い大正期に廃止されるなど、時代と共に消えた川の歴史もまた多く見られます。”

 古くから運行されていた渡し船が江戸時代に禁止されて「川越」になった経緯があるようです。府中宿は現在の静岡市葵区にあります。府中宿は城下町である駿府の一角を成していたとのことです(『府中宿(東海道)』Wiki.より)。駿府城公園が安倍川の左岸にあるので、府中宿と西隣の鞠子宿(丸子宿)との間に安倍川が流れています。府中宿の名物は安倍川餅、鞠子宿のそれはとろろ汁。どちらも好物、歩いて東海道を辿り両名物を食したい。

 しかし東から西へ、酒匂川、興津川、安倍川、大井川と「川越」を利用しなければならないのは堪ったものではありません。東海道の渡らなければならない他の大きい川はどうでしょう。相模川(馬入川)、富士川、天竜川。浜名湖は全て渡し船です。多摩川(六郷川)も忘れてはいけない。その他にも渡し船はあるでしょうか。

 旅は物入りが大変です。渡し船賃は料金×何カ所になるやら。そうそう、熱田宿から桑名宿に渡る七里の渡しもありました。七里も海の上では船賃が嵩みます。「かわごし」のお代は×4で済むのでしょうか。でも川止めに遭ったりすれば余分な宿賃が何日分か。ふところに十分余裕があれば、江戸時代の旅はさぞ楽しいかというと、途中で追いはぎや山賊に出くわしたり、宿屋では泥棒、道中ではスリ、などの心配をしたら切りがありません。楽しい旅のことだけ考えて、2,3百年ほど時間を戻して、のんびりと旅へ。それぞれの土地の景色や美味しい食べ物を楽しみたいと思います。忘れていました、全て徒歩(徒より)だということを。1日40kmなんて無理です。いや、お大尽なら懐が温かいので1日に歩く距離は気ままで良いわけです。何日掛けても大丈夫。

 締めくくりに地図を出します。『小学校社会科地図帳』(帝国書院、1960)より。左右に2分割しました。