305)河津で「峠の茶屋」に出会う | 峠を越えたい

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 新天城トンネルが出来たのは何時でしょう。1970年(昭和45年)に竣工しました(Wiki.)。天城峠を乗合自動車(≒バス)が行き来し始めたのが明治時代の終わりだとすれば、凡そ50年余りは旧下田街道をバスは辿り、天城隧道(旧天城トンネル)を潜り抜けたことになります。“道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って”来た「水生地下」辺りからの山路は、所々砂利が敷かれている比較的平らなところも一部あるものの、でこぼこ道が続きます。乗客は激しい縦揺れ、横揺れに絶えねばなりません。さぞ難儀だったでしょう。お尻が痛くなったのでは。バスも余程頑丈だったですね。旧道をバスで辿って天城隧道を抜けたいものです。峠道を歩くしかない時代なら、そんな難儀は考えられないものの、頼りの足腰による所用時間が全く違います。善し悪しは便利さを思えば考慮の対象にもなりませんか。また更なる難儀の乗合馬車の時代は想像もつきません。

 さて乗合バスのことで新知識を得ました。Omnibus(乗合バス)の省略されたものが、現在言われるバス(bus)だそうです。「オムニバス映画」とは聞いたことがありますが、単語は一緒です。

 天城隧道が見えて来ると、峠の北口にある茶屋も目に入ります。今は無きその茶屋が話題です。以前掲げた写真を再掲します。

 出典は『伊豆文学紀行』(鈴木邦彦著、伊豆文学フェスティバル実行委員会、2003)であり、撮影者は林良平氏です。何故か「二」が余分です。

 河津駅近くの蕎麦・天麩羅屋さんで昼食をとったのは、伊豆急下田行きが1時間ばかり待たないとやって来ないので、程良い時間だったからです。店の壁にふと上の写真と同一の写真を目にしました。どうしてここにあるんだろう。勇気を出して今回は尋ねました。“何故この写真がここに貼ってあるんですか”。河津の方の撮った写真で、町なかにあるH写真館のおじいちゃん(orひいおじいちゃん?)の作品なんだそうです。この写真屋さんは今も営業しているそうです。思い切って聞いて良かった。何でも聞いてみるもんです。天城隧道が写っているばかりでなく、二つとない「峠の茶屋」の姿が貴重です。若しかしたら他に天城路の写真が幾つも残っているかもしれない。今度河津に来る機会があったら、もう一度勇気を出しましょう。

 河津駅で電車に乗り蓮台寺で降りるつもりなのは、そこから歩いて下田に着いたら下田の町並みの入り口となる橋の名前を確認したいからです。蓮台寺駅を出てまっすぐ西へ暫く歩いたら、左折すれば下田街道です。千人風呂で有名な金谷旅館を右に、更に左にカーター大統領の泊まった清流荘を見て、右折すると蓮台寺温泉はかなり歩きますが、曲がらず真っ直ぐにずんずん進みます。下田にかなり近づいてからの道筋は、『静岡県歴史の道調査報告書―下田街道―』(静岡県文化財調査報告書第三十一集)の

「各説3 天城峠―下田、街道の概説 イ道筋」より(293と同じ)。

 「反射炉跡」バス停を通過します。

 

 韮山ではない、この地に反射炉の跡があるとは不思議です。『伊豆見聞録』(小出和美、金子昌彦、1981,長倉書店)にその経緯が載っています。江川太郎左衛門は幕府よりお台場築造の命を受け、必要な大砲を造るべく、反射炉築造の準備を下田市高馬で始めたそうです。しかし黒船が下田港に入港するようになり、場所は韮山に移され、元の場所は跡形もなくなりました。下田とか韮山とか、随分離れた土地を自由に使っているのが不思議でしたが、江川太郎左衛門は相模、伊豆、駿河、甲斐、武蔵の天領5万4千石分の代官として民政に当たった(Wiki.)とのことから、成る程と思いました。そう言えば、韮山反射炉に使うレンガを作る土を、河津大滝温泉より北西に延びる荻ノ入川に沿った道を暫く歩いて左折してまた進んだ辺りで採取したとされており、その道標が確か立っています。次のバス停が「高馬」。これは「たかうま」ではなく、「たこうま」でした。

 福泉寺よりも手前でひょういと横向くと見かけた石碑です。

      

 「日露談判下田最初の応接所跡」とは何でしょう。瓦屋根家屋の軒に掲げられた額は「不二峰」と読みますか。この建物は福泉寺の付属物かも知れません。『下田/福泉寺』(下田市観光ガイドマップ)より、

 “1854年11月ロシア使節プチャーチンと日本側(筒井政徳、川路聖謨)の最初の日露交渉が、この福泉寺で開かれました。
その後安政の大地震と津波により被災し、2回目以降は長楽寺で行われました
。”

 そうですね、この碑の立っているところが福泉寺そのものです。和親条約と国境画定の交渉が行なわれたお寺だそうです。福泉寺の前を過ぎてから、信号のある交叉点を真っ直ぐに進み、渡る小さな「道軒橋」はここらしいんですが。

 残念なことに、全く橋の体裁を成していません。欄干がガードレールになり、橋の名前もなし。小さな橋に昔々はなっていたんでしょうか。引用文の更に先の記述で、「下田橋」が現れます。(293)では「下田橋」の掛け替えられた橋が「みなと橋」ではないかと思いつつも確定できませんでしたが、下の地図が事実を証明してくれます。

 

 『ポケットガイド伊豆』(日本交通公社、1971)から採りました。町中の道路が少し変ですが、下田駅前を東西に通り抜ける広い通りが、稲生沢川を渡る所に掛けられた新下田橋の下流に架かる橋はみなと橋しかなく、上の地図と重ね合わせて「下田橋」=「みなと橋」と決まりました。その為「新下田橋」が命名されたはずです。甲州屋を過ぎて直ぐの三叉路を左に折れて進むと突き当たる橋は「みなと橋」に違いないので、稲田寺を右に見て通るS字型道路は甲州屋前の湾曲した道に当たります。すると下田入り口の道軒橋は、その落胆した両側ガードレール橋なのでしょう。上の地図では町なかの道が不満なので『歩く地図S 伊豆』(山と渓谷社、2000)も掲げます。

 この地図なら、甲州屋の僅か南の三叉路までS字を成す道(緑色)と三叉路を左折して「可否館」から下田橋に至る道筋が分かります。S字が段差を作っているのは南北の大通りができた際の関わりとしておきます。

 天城峠の茶屋の写真を河津で昼飯時に発見し、下田路(天城路)を思い、蓮台寺から歩いて下田路の終点に身を置きました。少し寒いが今日も良い天気です。