304)廃れる運命の大川の渡し | 峠を越えたい

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 隅田川(大川)に架かる橋について大掴みしました。『時系列地形図閲覧サイト 今昔マップon the web』(埼玉大学教育学部 谷健二氏)の古い国土地理院地図で橋を確認している内に、「……の渡し」が橋よりも気になって来ました。橋が出来るとその付近にあった「…の渡し」が廃止される場合が殆どです。それはそうですよね、要りませんから。でも寂しさが残ります。ところで矢切の渡しは続いていますでしょうか。

 『大川の水』(芥川龍之介、青空文庫)では、その「…の渡し」の消えてゆく寂しさを受け取れます。

 “………ことにこの水のなつかしく聞くことのできるのは、渡し船の中であろう。自分の記憶に誤りがないならば、吾妻橋から新大橋までの間に、もとは五つの渡しがあった。その中で、駒形の渡し、富士見の渡し、安宅の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜町へ渡る渡しと、御蔵橋から須賀町へ渡る渡しとの二つが昔のままに残っている。この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟に、同じような老人の船頭をのせて、岸の柳の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺りかごのように軽く体をゆすられるここちよさ。…………………………… 

その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御蔵橋の渡し」の廃れるのも間があるまい。”

 では、「今昔マップ」を使わせて貰います。隅田川上流より船下りします。上流から下流への順序は左→右、下がって左→右→と並べました。

 上流から、橋場、白鬚、竹屋、枕橋、横網(?)、一目、安宅、中州、佃(佃島)、月島、カチドキノ(渡)の11の渡しを数えます。『隅田川の渡し』(Wiki.)を読むと20以上の渡しがあったそうです。その内の橋場の渡しから下流を調べます。

 橋場の渡し(白鬚の渡し、住田の渡し)、今戸の渡し(寺島の渡し)、竹屋の渡し(竹家の渡し、向島の渡し、待乳の渡し)、山の宿の渡し(花川戸の渡し、枕橋の渡し)、竹町の渡し(駒形の渡し)、御厩の渡し(御厩河岸の渡し)、富士見の渡し(御蔵の渡し)、横網の渡し、一目の渡し(千歳の渡し)、安宅の渡し、中洲の渡し、大渡し(深川の渡し)、佃の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡し。

 沢山あります。更に橋場の渡しの上流には12の渡しが記載されています。橋場の渡しは現・白鬚橋の辺り、今どの渡しは現・桜橋の上流、竹屋の渡しは現・言問橋のやや上流、山の宿の渡しは東武鉄道隅田川橋梁の付近、竹町の渡しは現・吾妻橋と現・駒形橋のほぼ中間、御厩の渡しは現・厩橋付近、富士見の渡しは現・蔵前橋の下流側、横網の渡しはIR総武本線隅田川橋梁付近、中洲の渡しは現・清洲橋の位置、大渡しは現・隅田川大橋(上に首都高9号線)の下流側で江戸期の永代橋の辺り。

 『隅田川の渡し』(Wiki.)の「橋場の渡し」に興味あることが書かれています。

 “歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代の承和2年(835年)の太政官符に「住田の渡し」[3]と書かれたものが残っている。

奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。

橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。”

 明治天皇が行幸された三条実美の別荘についてはその跡である標識(案内板)と石碑が立っているのでした。別荘や料亭の建て込んでいた場所だったようです。

 突然『更級日記』(菅原孝標女著)の一文を掲げます。『古典に親しむ』(「がんばれ凡人!」)の更級日記、「すみだ川」の所です。

 “野山蘆荻の中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にいて、あすだ川といふ、在五中将の「いざ言問はむ」と詠みける渡りなり。中将の集にはすみだ川とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。”

 作者は間違えています。隅田川は武蔵国と下総国の境界です。「あすだ川」と昔々には呼ばれたことのある隅田川であったか、「(平凡社)世界大百科事典(旧版)内のあすだ川の言及、【隅田川】より」(コトバンク)が見つかりました。

 “…東側の墨田・江東両区と西側の台東・中央両区の境界をなし,近世初頭までは武蔵と下総の国境となっていた。古くは住田川,角田川,墨田川とも書き,須田(すだ)川,あすだ川,染田川,浅草川,宮戸(都)川とも呼ばれた。近世,今の吾妻(あづま)橋から下流は大川の名で親しまれた。…”

 隅田川の時代時代における名前が詳しいです。でも「あすだ川」=「すみだ川」は確かではなさそうです。『更級日記紀行(更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代を再現)』の「現在の隅田川は『あすだ川』と呼ばれたことがあったか?」を読みました。しっかり研究している方がいるんですね。根拠は明確でなく、更級日記作者の勘違いではないか、別の川であろうと結論しています。本文参照を、興味深いです。勘違いした作者であれば、渡し船に乗ったのは「住田の渡し」(橋場の渡し)でないかもしれない。

 またその中でもう一つ興味深いことを。

 “話は飛ぶが伊勢物語の主人公、在原業平は本当に関東に下向したのかという問題があった。以前は完全な虚構であるという説が有力であったらしいが、現在は元になる事実はあったとする説が有力である。それについては角田文衛博士が詳細に考証されているので(東京堂出版:王朝の映像p.208『業平の東下り』)省くが、そこに登場する「すみだ河」が現在の東京都の隅田川であることは疑いを入れない。”

 最初の疑問は主人公の名前が出て来ない伊勢物語において「むかし男ありけり」の「おとこ」が何故在原業平なのかということです。それは源氏物語では伊勢物語を「在五の物語」(在五中将=在原業平)と呼んでいて、平安時代に既に主人公=在原業平と認識されていたそうです(Rekisiru、「在原業平とはどんな人?性格や伝説、百人一首にも選ばれた有名和歌も紹介」より)。更級日記も語っていますからね。次には在原業平が本当に武蔵国にやって来たのか、そして隅田川を眺めて歌を作ったか。確実なものではなく、小説かも知れない。研究者でないんだから無闇なことを言ってはいけません。でも事実は問わず、更級日記の作者が隅田川で渡し船に乗った際、昔々在原業平がその同じ状況で詠んだ歌に思いを馳せている情景は絵になります。だから本当は「あすだ川」=「すみだ川」であって欲しい。