294)いわゆる「鎖国」と一種の「海禁」 | 峠を越えたい

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 “(江戸幕府は)鎖国した”と言うと言い過ぎのようで、また“鎖国はなかった”と言い切ると行き過ぎのように思います。話をattractiveにしたい意図も見え隠れしているような。『近年改められた教科書の記述6選』(YouTube、日本歴史チャンネル)の話題6つ中の一つとして述べられていました。でも「鎖国はなかった」は其処此処で耳にする表現ではありますね。「限国」と呼ぶ人もいると断わっていて、意味は良く伝わりますが響きに違和感があります。熟語として段々馴染んでいけば通用しないでもありません。先ずは辞書を当ってみます。日本国語大事典(小学館)はこのようです。

 “さーこく【鎖国】

 国をとざして外国との交際を断つこと。特に、江戸幕府がキリスト教や外国勢力の流入を恐れ、海外通交の統制をはかるため、寛永十六年(一六三九)から安政元年(一八五四)までの間、朝鮮、中国、オランダを除く諸外国との通商、往来、や日本人の海外渡航を禁止したこと。”

 昔ながらの定義のままで「鎖国」を用いています。広辞苑はどうでしょうか。

 “さーこく【鎖国】………江戸幕府が、キリスト教禁止を眼目として、中国・オランダ以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航とを禁じたこと。この状態を「鎖国」と呼ぶのが一般的になったのは近代以降。近年では、幕府が四つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して国際関係を築いていたという見解が通説。”

 こちらでは、外国との付き合いは長崎に於いてだけでなく、もっと広かったことを付け加えています。では国語辞典でなく専門書として日本史小辞典(山川出版社、2005)を調べます。

 “さこく【鎖国】…………長崎でオランダ船・中国船との貿易のみを行なう体制を築いた。……ただし朝鮮とは府中(対馬)藩を介して国交を結んでおり、琉球も鹿児島藩の支配下にあったから、文字通り国を閉ざしたわけではない。この点に注目して「海禁」という概念も用いられている。はじめ幕府には鎖国したとの認識はなかったが、19世紀初頭にロシアとの貿易要求を拒絶した頃から鎖国が祖法であるという観念が成立し、幕府すら拘束する最重要の体制概念となった。1853年(嘉永6)アメリカ使節ペリーが来航し、その開国要求に屈して鎖国は終わった。”

 「四つの口」の内、松前藩によるアイヌとの貿易が記されていません。「海禁」と言う言葉は確か中国史で習いました。外国人の渡来と日本人の海外渡航に関しては「鎖国」的で、貿易については「限国」的と理解して良いでしょうか。

 志筑忠雄がケンペルの『日本誌』を翻訳した際に、その翻訳書(19世紀初頭出版)の中で「鎖国」という言葉を用いたようですが、実際「鎖国」と記されていたかは原文を読まなければなりません。

 では「四つの口」をビジュアル化したいです。先ず「日本からみた外交秩序」(『詳説日本史研究』>第6章「幕藩体制の確立」、山川出版社、2008)を。

 どんな貿易体制かを詳しく。「鎖国以後の貿易と外交(長崎貿易―オランダ・中国―)」(『新詳日本誌図説』浜島書店、2000)より、

 「四つの口」における付き合い方(貿易と外交)がしっかり図示されています。かなり判然として来ました。良く言う「鎖国はなかった」と聞くと、貿易は自由で人の往来も制限がなかった、と受け取られる心配があるので、何か適切な用語が見つかればそれに越したことはありませんが、「いわゆる鎖国」として言葉は残して、その内容を但し書きすると良いでしょうか。素人は偉そうなことは言わずに、専門家に任せましょう。

 さて「海禁」も調べて置いて良かったです。日本史小辞典(山川出版社、2005)です。

 「いわゆる鎖国」と「海禁」は用法が近いですね。「下海通蕃之禁」の略と言うことはこの熟語が中国にあるんでしょう。