293)歩きで繋いだ下田路 | 峠を越えたい

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戻るより未だ見ぬ向こうへ

 歩いて下田街道を全て繋ぎました。幾度伊豆旅行を繰り返した結果かは不問に。今回のブログと前回のブログ(翌日の行程)とで完結です。一般道路だけでなく、小鍋峠と江戸時代の天城峠(但し二本杉峠の北側のみで南側の梨本に至る道は土砂流出)、また書生と旅芸人一行の短絡した広尾峠越えも勿論含んでいます。

 先ずは下田街道の定義をします。『静岡県歴史の道調査報告書―下田街道―』(静岡県文化財調査報告書第三十一集、静岡県文化財保存協会、1984年)の「1 古代北伊豆の条里と交通路」(<「総説Ⅰ 古代・中世の下田街道」)より、「下田路の成立」のところです<引用1>。

 “三島神社の大鳥居を起点に、北条・大仁・湯ヶ島を経て、天城を越え梨本に至り、さらに小鍋峠をこえ、箕作・河内を経て下田に至る通計十七里十四町二十一歩(『豆州志稿』による。なお、藤原山越えは八町五十六歩近しとある)のいわゆる下田街道は、江戸時代には下田路と呼ばれ、口伊豆(北伊豆)と奥伊豆(南伊豆)とを結ぶ幹線道路であった。”

 「藤原山越え」とは何処でしょう。1町=109mとして、およそ1kmあるかないかとすればそれ程道のりは短くなりませんね。もう一つ引用します。『下田街道の風景』(橋本敬之著、長倉書店)>「総説」>「1下田街道外観 」より、<引用2>

 “下田街道は江戸時代の脇往還で、下田往還ともいい、三島から下田までの約75キロメートルの距離をいう。現在でも旧下田街道とか言ったり、また、下田へ通じる国道136号や414号を指すこともある。三島宿から狩野川沿線を南下し天城峠を越え、下田へ通じる。東海道の三島宿三嶋大社の前から、三島宿南見付(言成<いいなり>地蔵付近)を出てまっすぐ南下、狩野川を西に見、そのまま、さらに南へ向かい、天城峠を越えて下田まで通じている。下田の起点は「道玄橋」(道軒橋)と考えられている。”

 今回の歩き出しはJRの三島駅ですが、振り出しの三嶋大社には何としても寄っておかないといけません。

 では鳥居を潜って出発します。

 (恐らく)下田街道を10分ほど歩いて何の気なしに振り返ったら、道と家並みと青空に縁取られた、富士山の出現に息を吞みました。その真っ白さと雄壮さを十分に伝えられないのが残念です。今回は三島大社前から大仁駅まで歩くことになります。2日掛けたことを正直に言います。全行程は狩野川と伊豆箱根鉄道駿豆線に挟まれた道を歩きます。狩野川右岸と駿豆線との間です。青空の下を気分良く歩きながら、顧みるといつも富士山。

 ここは大場辺りだったでしょうか。

 「願成就院→」の案内板は韮山駅を少し過ぎた辺りです。時間の余裕がないため今回も国宝の運慶作仏像群を拝まず仕舞いで心苦しいです。その気持ちを将来に残しておきます。伊豆長岡駅最寄りの交差点の表示は「南条」で、それを過ぎて直に狩野川の土手を辿る道となります。綺麗な水の流れが寄り添い、勿論富士山が見守ってくれています。

 土手沿いの道は川風が心地良いです。暫くすると狩野川の流れと別れて、退屈な国道を沢山歩いて大仁駅に着きました。以前大仁駅から修善寺駅まで僅かの距離を歩いたことがあって、また別の時に修善寺駅より湯ヶ島バス停まで歩いたのを足して、残るは湯ヶ島~浄蓮の滝です。明日歩きます。ずっと狩野川の右岸を歩いて来ますが、大仁を出ると下田街道は狩野川左岸に移ります。駿豆線は修善寺駅まで全線で右岸のままです。だから大仁~牧之郷~修善寺とそれこそ半円を描くような大廻りとなります。駿豆線は長い橋を架けるのに躊躇したんでしょうか。そのお蔭かどうか分かりませんが、修善寺駅から修善寺温泉まで随分遠いです。東海バスはバス代をかせいでいます。そう言えば伊豆長岡駅から長岡温泉までも結構あります。

 さて下田街道の下田の起点は「道玄橋(道軒橋)」と<引用2>にありましたが、<引用1>にもこの橋の名前を見付けました。「各説3 天城峠―下田」>「イ 道筋」の中です。

 

 この附近のGoogle地図を見ます。

 本郷富士(下田富士)を右手に見ながら福泉寺の前を過ぎて、交叉点を真っ直ぐに進むと小さな道軒橋を渡って下田の町に入る。従って本郷の交差点を突っ切って直に渡る細い川に架かる橋が道軒橋でしょう。「シンジ理容室」が橋のたもとにあります。推測が正解かどうか、次回の下田往訪が楽しみです。その後の既述です。

 “町中に入り、稲田寺を右にしてS字形の道を進み、三叉路から左に折れると、現在の下田橋に到る

甲州屋の前の道が不自然に蛇行しています。この道を少し進むと三叉路があり、左折して暫く行くと稲生沢川に架かる「みなと橋」を渡ります。新下田橋の直ぐ下流です。甲州屋に関して『伊豆の踊子』(川端康成著、中公文庫『伊豆の旅』内)の一節を引用します。

 “甲州屋という木賃宿は下田の北口をはいると直ぐだった。私は芸人達の後から屋根裏のような二階へ通った。………街道に向った窓際に坐ると……

 そうするとS字形になった道の後半部分に甲州屋があって、「みなと橋」は下田橋の掛け替えられたものではないでしょうか。この橋については盛んに検索しましたが手掛かりありません。また稲田寺辺りから甲州屋までは道が少し変わったのでしょうか、全体でS字を描けません。

 「江川太郎左衛門の反射炉築造計画跡」なる場所が現れましたが、東海バスに「反射炉跡」バス停が存在します。現在の414号線でなく旧道(下田街道)を歩き、蓮台寺を過ぎて下田の町に入る手前でこの名を見かけて何だろうと思ったことがあります。