290)古東京湾と奥東京湾 | 峠を越えたい

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 古東京湾を調べようと思います。昔日中学校の社会科の時間に習ったのですが、普通は地学で教わるものかというと、あまり教わる機会はないでしょうかね。我々の中学は教えるべき事と外れたような内容が講義されることがあり、広い教養と言っておきましょう。かなり年配の地理の先生が、どうも専門は「地学」とか「古地理学」とか呼ぶべきものでしょうか。地図を一日見ていても飽きないほどの私が、何だつまらないと思って好い加減に聞いていたのが悔やまれます。堀江先生御免なさい。古東京湾とか、住んでいたカルカロドン、メガロドンなる名前を今に至るまで忘れないのが不思議です。地理の勉強に関係ないじゃないかなんて偉そうなことを考えて、興味深い話に耳を貸さなかったのが悔やまれます。内陸に向かってえぐれていた東京湾が最大に海進していた時代、詰り最温暖時に、我が栃木県まで岸辺が達していたのかどうか気になります。

 恐竜の名前かなんて思い続けて月日を重ね、お恥ずかしい限りです。今回調べて良かった。詳しくは本文を読んで貰うとして、『メガロドン』(Wiki.)の「学名と分類」の項より一部分を。

 “白亜紀初期にホホジロザメから分岐して絶滅した。ネズミザメ科に分類されている。属名についてはまだ議論があり、Carcharocles、Megaselachus、オトドゥス、Procarcharodonのいずれかに分類されている。これは、メガロドンが、暁新世に進化したオトドゥス属の巨大ザメの系統の最終種であることを示す移行化石が発見されたためである。…………………………現生のホホジロザメと近縁という考えから、カルカロドン(=ホホジロザメ属の)・メガロドン(Carcharodon megalodon)という学名が主流であったが、近年では、完全には置き換わっていないものの、カルカロクレス・メガロドン(Carcharocles megalodon)の方が、学術レベルにおいては広く受け入れられている[8]。”

 どうも「カルカロドン・メガロドン」(ホホジロザメ属のメガロドン)という一つ名なんですね。サメの絶滅種のようです。2300万~150万年前(新生代古第三紀漸新世―新第三紀漸新世)に生きていました(Wiki.)それが古東京湾岸に生息していたのでしょうか。13,4歳の記憶は辿れません。かなり後までノートは保存されていましたが。

 古東京湾とは縄文海進時代の東京湾とは限らないで、古い時代時代の内にえぐれた東京湾の総称でしょうか。ブリタニカ国際大百科事典は載せてくれています。

 “古東京湾[コトウキョウワン](Paleo-Tokyo bay)

第四期→更新世の中・後期に、鹿島灘に湾口をもって関東平野地域に存在したと推定される湾。1927年→矢部長克が命名。いまの東京湾はまだ存在せず、当時の海成層に産する貝化石はホタテガイ類など北方系のものが混ざっていて、水温は現在の東京湾より低かったといわれる”。

 定義は限定されています。第四期(更新世+完新世)は258万8000年前から現在までの期間(Wiki.より)を言い、その中の更新世は258万年前から1万1700年前までです。更新世前期(ジェラシアン+カラブリアン)が258万8000~78万1000年前、「チバニアン」が78万1000~12万6000年前、後期更新世が12万6000~1万1700年前と記載されているので(『更新世』Wiki.)、中期更新世が我が国の誇るべき「チバニアン」に当ります。依って78万1000年前~1万1700年前が古東京湾の時期です。「カルカロドン・メガロドン」は疾うにいません。水温は今の東京湾より低いとは変ですね。海水面だけでなく陸地の領域の問題もあるのでしょうか。

 定義された「古東京湾」の末頃が少し「縄文海進」に触るでしょうか。では『日本大百科全書』(ニッポニカ)より、

 “縄文海進 じょうもんかいしん

最終氷河以降の海面上昇に伴い、日本周辺で現在の海岸線よりも奥まで海が侵入したこと。縄文時代早期~前期におきた海進であることから縄文海進とよばれる。関東平野で縄文時代の貝塚が内陸まで分布していることから1920年代に縄文時代の海岸線の図がつくられ、縄文海進の存在は知られていた。海進がもっとも進んだ時期は地域によって異なるが、おおむね7000~6000年前とされている。これは日本周辺で海面がもっとも上昇した時期にあたる。”

 縄文時代早期が11000年前から、前期が7200年前から、中期が5500年前から、なので、今から11000~5500年前が縄文海進の時期となります。

 1万1700年前までが古東京湾の時期でその僅か後から縄文海進が始まったことになります。そうすると気候温暖化で海面がどんどん上昇し、現在の東京湾よりも内陸に向かって東京湾がずっとえぐれて行ったとすれば、鹿島灘に湾口を持っていた古東京湾に対して、海面上昇により南方向から、この時期に湾がえぐれて行ったと考えれば良いのかどうか。『東京湾』(Wiki.)の中の「歴史」が古東京湾から縄文海進時代への経過を説明してくれます。

 “12万年前は現在より海水面が高く(下末吉海進)、房総半島は島であった。この頃の湾を「古東京湾」と呼ぶ。

旧石器時代最終氷期にあたり、氷河が発達していたため海面が現在より著しく低く、浦賀水道付近以北は陸地だった。渡良瀬川[注釈 13]利根川とが現在の大宮台地を挟んで東西側を南流し、現在の内湾の中央付近で合流した後[注釈 14]、太平洋への河口へ向けて流れた[注釈 15][11]。これらの河川は大規模な峡谷を作った。

 6000年前には縄文海進による海水面の上昇があり、関東地方の海水準は現在より3 - 4mほど高かった[12][13]。東京湾は北へ湾入し、渡良瀬川河道では群馬県邑楽郡板倉町付近まで、利根川河道では埼玉県川越市付近まで湾入したことが貝塚分布から裏付けられる。この頃の東京湾を指して「奥東京湾」と呼ぶ[注釈 16][14][15]

 3000年前から縄文海退が始まり、渡良瀬川利根川が沖積層を作り湾入部・峡谷を埋めていった[注釈 17]

その頃より、利根川は流路を変え、大宮大地の東の渡良瀬川河道の地帯を流れるようになり、東京湾へ注ぐこの河道の一帯は広大な氾濫域低湿地となった。”

 12万年前は間氷期です。今よりも温暖であったらしく下末吉海進と呼ばれ、海面が高く、この時代の湾を「古東京湾」と呼びます。ブリタニカでは781000~11700年前との定義です。その中で12万年前が一番気温の高い時期にあたるので、海水面は最も高かったことになります。房総半島が島で、湾は鹿島灘に開いていました。楽しい絵を見付けました。トップページ>葛飾区史目次>第1章 葛飾の風土と自然より。

 このサイトにも「下末吉海進」が記されています。確か関東ローム層の層位名にもありましたね。鹿島灘側にも相模湾側へも開いています。

 その後の氷期は2万年前辺りが最も寒く海面が著しく低下したその絶頂期が上記の記載と思われます。1万年前前後から間氷期に入り、完新世となり、現在に続きます。7000~5000年前が一番気温上昇した時期で、「ヒプシサーマル期(完新世の気候最温暖期)」と呼ばれています。取りも直さず「縄文海進」期です。

 この時期の東京湾の様子も葛飾区ホームページが詳細です。上記同様「第1章 葛飾の風土と自然」に頼ります。

 地図と別の項での説明を。

 “ 縄文海進の海面は現在より2〜3m上昇し、奥東京湾西の入り江は現在の埼玉県川越市付近、東の入り江は埼玉県久喜市栗橋・茨城県古河市付近にまで達していた。”

 縄文海進期のもっと親しみやすい地図を。出典は『新詳日本史図説』(浜島書店、2000年)です。

 点の表示は貝塚の位置で、青点、黒点が海水産貝類で赤点が淡水産貝類の出土地点です。この時期には東京湾は鹿島灘方向には開けていませんね。古東京湾に対して、縄文海進時代の東京湾を奥東京湾なんて言うらしいです。古東京湾の少なくとも12万年前の時期は縄文海進時代よりももっと暖かかったのでしょうか(でも水温は低かったと書かれていました?)。時代を追っての気温の変化の大凡を図示します(自作)。30万年前~現在(全体像)を上に、12万年前~現在を切り取って(中段)、それを更に拡大して下に表わします(下段)。参照は『完新世の気候最温暖期』(Wiki.)『過去の気温変化』(Wiki.)など。

 

 古東京湾(の海水面最上昇期)≒下末吉海進および奥東京湾(の海水面最上昇期)≒縄文海進期と一応考えます。

 最後に、徳川家康が江戸に入った頃の東京湾の広さが気になります。「(CLUB LEON)TOP>STAY&TRAVEL>銀座は島だった?銀ブラしながら話せる雑学5選」より地図を借ります。

 上掲地図の説明書きとして、“現在の日比谷公園・皇居外苑あたりまでは海(日比谷入江)が入り組み、東側に江戸前島(半島)が浮かんでいた。徳川家康にの江戸入りに伴い、日比谷入江が埋め立てられ半島としての江戸前島は姿を消した。”と記されているので、江戸時代初めの地図として良いでしょう。右上に浅草寺が見え隠れしていて、隅田川が右端に位置しており、我が故郷を含む本所、深川、亀戸界隈は元々下総国ゆえ、省かれてしまいました。不忍池の湖畔から本郷台地に登っていく坂が無縁坂でしょう。千束池は台東区千束としてその名が残っています。お玉が池に誰か住んでいましたね。千葉周作の道場が確かお玉が池にありました。「汽笛一声新橋を………」の愛宕山が日比谷入り江の岸辺に面しています。日比谷入り江の位置は山手線東京駅~有楽町駅~新橋駅間の直ぐ西側から現在の皇居の東端です。