175)名阪をむかし往来するには | 峠を越えたい

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 関西本線(名古屋~亀山~奈良~難波)が時代と共にどう繋がって行ったのかを知りたいと思います。明治22年の時刻表(交通公社復刻版付録)には全く載っていないので、1893年(明治26年)の路線図、「鉄道敷設法公布後1893年3月鉄道路線図」(『鉄道路線をくらべて楽しむ地図帳』、寺本光照編著、山川出版社)が最初です。

 名古屋~四日市間と亀山(正確には柘植?)~奈良間とが未だ繋がっていません。奈良~湊町間は出来ていますが、難波~堺間は別の路線に見え、難波~奈良間でないのは変ですね。路線の色がみな青色なので、私鉄です。1899年(明治32年)の時刻表(ネット公開)の関西本線に該当する時刻表を示します。名古屋~亀山間です。

 名古屋~弥富~四日市~亀山が後の関西本線で、弥富~津島は現・名鉄です。次は亀山から柘植を。

 亀山~柘植~加茂が後の関西本線で、柘植~草津は現・草津線です。さらに奈良~湊町は。

 奈良~王寺~湊町が関西本線で、桜井~王寺は桜井線(奈良~桜井~高田(~王寺))の一部です。1899年の路線図です。

 大変見づらいです。奈良~桜井間も加茂~木津~奈良間も繋がっています。現・関西本線は全通しています。加茂~奈良の線は例の大仏線で、明治32年はこの線が僅か数年だけ存在した時代でしたね。『鉄道路線をくらべて楽しむ地図帳』の1906年(明治39年)の「鉄道国有法公布時1906年9月鉄道路線図」より。

 西の端の天王寺駅~湊町辺りは難波駅とどういう関係なのでしょう。現在はこのようです。2022年5月『JTB時刻表』(JTBパブリッシング)より。

 

 関西本線終点のJR難波駅は昔の湊町駅だそうで、少し場所が動いているようで、大阪環状線の歴史をまとめた際に触れました((172)参照)。改めて『JR難波駅』(Wiki.)の「歴史」より。

 “1889年明治22年)5月14日 - 大阪鉄道の湊町駅(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町駅 - 柏原駅間の起点となる。

1900年(明治33年)6月6日 - 大阪鉄道の路線を関西鉄道が承継し、同社の駅となる。

1907年(明治40年)10月1日 - 国有化により国有鉄道の駅となる。

1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により、関西本線所属となる。

……………

1989年平成元年)12月28日 - 南西へ約200m移転する[3]。………

1994年(平成6年)9月4日 - JR難波駅に改称する[1]。これにより、JR各社では初めて「JR」を冠した駅となる[1]。………

1996年(平成8年)3月22日 - 連続立体交差事業により、JR西日本では初の地下駅となる[4]”。

 さて関西本線の路線の起伏はきついのかどうか。『関西本線』(Wiki.)の「沿線概況」内「亀山駅―加茂駅間」では。

 “………この先、鈴鹿山脈布引山地の境界に当たる加太駅 - 柘植駅間には、加太越えと呼ばれる25 ‰(パーミル)急勾配があり、蒸気機関車が走っていた頃は多くの鉄道ファンが訪れた。スイッチバック式の中在家信号場2006年に使用停止、2019年に廃止)があった”。

 「加太(かぶと)越え」と名前の付くほどの難所です。その辺りの国土地理院地図を。

 

 位置関係は地図の右側(東側)に加太駅、左側(西側)に柘植駅です。加太駅の標高が158m。中在家信号場があった場所は「加太中在家」と記されている辺りでしょうから、ここの標高を測ってみると、227m。名阪国道に一番くっついている辺り:247m、「関西本線」と記されている辺り:259m、加太トンネル東入口:271m、加太トンネル西出口:293m、左の湖手前:285m、柘植駅:253m。

 「加太越え」の急勾配を乗り切って加太トンネルに入り、西に出た地点がこの路線の峠に当たるようです。地図に「加太越え」の記載を見つけました。『中学校社会科地図』(帝国書院、1996)より。

 関西本線「つげ」駅の東にトンネルの印があって(加太トンネル;伊賀国と伊勢国の境界)、「加太越」とあります。北の鈴鹿山脈と鈴鹿峠、南の布引山地と長野峠、それらに挟まれた山間部(鞍部)です。越えると(伊賀)上野盆地で、更に行く先の、笠置山地を南に控えた辺りも山に囲まれています。路線はどれ程の高低差を通っていくのでしょうか。伊賀上野駅:140m、月ヶ瀬口駅:106m、笠置駅:50m、加茂駅:39m、木津駅:35m、奈良駅:67m。予想違いで、笠置駅近辺で標高が一番高いわけではなく、上野盆地から奈良盆地へは段々下っています。

 木津駅を越えて入った奈良盆地を更に西へ進むと、奈良盆地から大阪方面に抜けるのに峠越えがありそうですが。同じ『中学校社会科地図』を。

 真っ直ぐ大阪へではなく、奈良駅からは南側へ迂回し、生駒山地と金剛山地の山間をうまく選んでいるのは近鉄大阪線や西名阪自動車道と同様です。

 京都回り(東海道本線)でなく、最短時間で名古屋と大阪を結ぶ為に建設された関西本線であった気がします。往時は急行が走っており、例えば1961年(1961年10月『時刻表』日本交通公社より)では、急行「大和」が名古屋発:555,湊町着:911。何とこの急行は東京発の夜行なんですよ。かかった時間は3時間16分です。片や、急行「金星」が名古屋発:530、大阪着920(これも始発は東京)で、時間は3時間50分。34分差が十分有意であるかは難しいものの、短縮されているには違いありません。兎も角名古屋から大阪を目指す路線として、関西本線は東海道本線と肩を並べる様子です。

それが、急行が走らなくなり名古屋~JR難波の直通も今やありません。そのあたりの事情は

『関西本線』(Wiki.)の「歴史」より。

 “……その後、関西鉄道は名阪間で官設鉄道(東海道本線)と激しい競争を繰り広げ、関西鉄道は官営鉄道より20分所要時間の差をつけ、さらには記念品を配ったり運賃を5割引にしたりと派手な誘客作戦を実施した。この誘客合戦は日露戦争に突入した1904年に一旦終息し、鉄道国有法により1907年に関西鉄道が国有化されたことで終わりを告げた(詳細は「関西鉄道」を参照)。

国有化後はローカル線化していたが、大正時代に入って大阪電気軌道、参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)などの私鉄が並行して路線網を伸ばしてくると、輸送量が逼迫していた東海道本線に代わり、これらの私鉄路線に対抗する路線として注目され、近鉄に先んじて名古屋駅 - 湊町駅間に快速列車が設定された[25]。戦後は準急列車として復活し(後の「かすが」)、全国に先駆けて気動車化されてスピードアップが図られるが、東海道本線が全線電化され、近鉄もスピードアップや軌間統一を実施し、さらには東海道新幹線の開業や名神高速道路・名阪国道の開通によって、関西本線は名阪間輸送の第一線から退くことを余儀なくされる(「かすが」も参照)”。

 「概要」のところにはこんな事が書かれています。

 “JR西日本エリアのうち亀山駅 - 加茂駅間は単線の非電化区間であり、1両ないし2両の気動車による地域輸送(ローカル輸送)に徹している。沿線は山間部が多くを占め、大都市圏に含まれる他の2区間と比べると沿線人口は圧倒的に少ない。また、2022年4月11日にJR西日本が公表したローカル線の線区別収支によると、同区間は2019年度の輸送密度が1日2000人以下となっており、JR西日本は路線の活性化策などを関係自治体と協議したい考えで、廃線も視野に議論が進む可能性があると報じられている[3][4]が、三重県側の地元自治体の一つである亀山市は存続希望を示している[5]”。

 鉄路が繋がっているのと途切れているのとでは気持ちが全く違います。代替バスの運行では繋がった感覚はなく、鉄路こそ名阪及び中間の土地、土地が連絡している証拠です。存続を希望しますが、新幹線を使えば良いという言葉が返ってくるでしょうか。遠い将来リニア新幹線を通すことを夢想すると、京都が反発します。

 関西本線に揺られたことがありません。と述べたところで紀勢本線は亀山~津~新宮~和歌山市であることに気付きました。関西本線は名古屋~亀山~奈良~JR難波ですから、紀伊半島を旅した時ごく一部で載ったことになりますが、その際は名古屋から松阪辺りまで近鉄だったかも知れない。記憶はあやふやです。

 上記のことで路線図と時刻表を見ていたら新たなことが分かりました。紀勢本線に入る特急は亀山を通らず、伊勢鉄道(川原田~鈴鹿~津;第3セクター)を辿ります。名古屋方面と津以南を短絡するため元々造られました。特急が亀山を通っていた昔は亀山駅へはスイッチバックで入って出た様に思われますが。名古屋発緩行は亀山が終点です。