2013年の7月から現在のタントという車にして約7年、6月6日に走行距離が10万km になりました。

 

 

事故やトラブルもほとんどなく毎日 私たちを安全に運んでくれてほんとうにありがとう♪。この日は娘の引っ越しで高速道路を走行中でしたので車を停車させることができずに、走行中にパチリ。これからもまだまだお世話になると思いますが、よろしくお願いします。

あらすじ
私たちの生命は、大勢の先祖の喜びや悲しみでできている。一番身近な先祖である父母への孝行を怠ってはならない。薬師寺管主である著者は、「人の此の世に生るるは、宿業を因として、父母を縁とせり。父にあらざれば生せず、母にあらざれば育せず」「母の情を性命とす」と説く〈父母恩重経〉の教えに基づき、人の存在の幽遠さと、親孝行への懈怠の罪深さを語り、そこからの救いのひかりを指し示す。

ひと言
なつかしい芥川龍之介の「杜子春」や「蜘蛛の糸」の話、「まごころ説法」で抜粋した 母と私と茄子 などが紹介されていて、また引き込まれて読みました。下にも本文を抜粋したのですが、十種の親の大恩をWikipediaの解説も併せて記載します。
懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
始めて子を体内に受けてから十ヶ月の間、苦悩の休む時がないために、他の何もほしがる心も生まれず、ただ一心に安産ができることを思うのみである。
臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
出産時には、陣痛による苦しみは耐え難いものである。父も心配から身や心がおののき恐れ、祖父母や親族の人々も皆心を痛めて母と子の身を案ずるのである。
生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
出産後は、父母の喜びは限りない。それまでの苦しみを忘れ、母は、子が声をあげて泣き出したときに、自分もはじめて生まれてきたような喜びに染まるのである。
乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
花のような顔色だった母親が、子供に乳をやり、育てる中で数年間で憔悴しきってしまう。
廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩
水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた所に子を寝かせ、湿った所に自ら寝る。
洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩
子がふところや衣服に尿するも、自らの手にて洗いすすぎ、臭穢をいとわない。
嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
親は不味いものを食べ、美味しいものは子に食べさせる。
為造悪業(いぞうあくごう)の恩
子供のためには、止むを得ず、悪業をし、悪しきところに落ちるのも甘んじる。
遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
子供が遠くへ行ったら、帰ってくるまで四六時中心配する。
究竟憐愍(くつきょうれんみん)の恩
自分が生きている間は、この苦しみを一身に引き受けようとし、死後も、子を護りたいと願う。

お釈迦さまは、お父さん、お母さんには「十種の恩徳」があると、その深く広大な恩徳を、十の徳目に分けて説明しておられます。十の徳目を先にならべて、そのあとにひとつひとつの具体的な説明がなされています。
「一には懐胎守護(かいたいしゅご)の恩」 
これを「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、身、重病を感ず、子の身体之に由りて成就す」と説明なされています。
「二には臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩」 「三には生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩」
この二つの恩徳は「月満ち時到れば、業風催促して、徧身痘痛し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然として身を亡ぼす。若し夫れ平安になれば、猶お蘇生し来るが如く、子の声を発するを闇けば、己れも生れ出でたるが如し」という具合に、十の徳目にそれそれ説明があります。
これは前にも述べましたが、摩耶夫人がお釈迦さまをお生みになる時、大変な難産であったところから、出産における母親の苦しみというものは、お釈迦さまご自身の八十年のご生涯を通じての実感であったと拝察されます。
「四には乳哺養育(にゅうほよういく)の恩」 
これは「其の初めて生みし時には、母の顔(かんばせ)花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す」のことです。垂乳根という枕詞の所以となりました乳房の形の崩れも、この乳哺養育の結果であります。
「五には廻乾就湿(かいかんじゅうしつ)の恩」
「水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁(あした)にも、乾ける処に子を廻わし、湿(うるお)える処に己れ臥す」がこれにあたります。夜中にオシッコをした子供が気持が悪くてむずかります。いち早く目をさました母親はオシメを取りかえる、けれどもオシッコでふとんはぬれています。そのぬれているところに母親は自分の身をおき、乾いたところで気持よく子供をねかせてくださる、これが廻乾就湿です。こういったことは子供のものごころのつかない頃のことなので、子供は全く覚えていません。しかし、その子供が成長して自分の子供をもった時に、はじめてこういった、廻乾就湿の恩に目覚めるものです。
「六には洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩」
「子己が懐に屎(くそま)り、或は其の衣に尿するも、手自から洗い濯ぎて、臭穢を厭うこと無し」がこれです。
「七には嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩」
これは「食味を口に含みて、これを子に哺むるにありては、苦き物は自から嚥み、甘き物は吐きて与う」であります。美味しいものはみんな子供にたべさせて、自分は残ったものをかたづけている母の姿を思い出します。
「八には為造悪業(いぞうあくごう)の恩」
「若し夫れ子のために、止むを得ざる事あれば、躬(み)ずから悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず」がこれにあたります。子供が欲しいといえば、悪いこととは知りつつも、つい他人さまの花を手折ってしまう、親の悲しさであります。
「九には遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩」
「若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之を憶(おも)い、寝てもさめても之を憂う」がこれにあたります。
とんぼとり 今日はどこまで いったやら
という加賀の千代女の句が思い出されます。この句は、遠行憶念そのものずばりといえましょう。親の心配をよそに、子供はおかまいなしにどんどん遠くへ遊びにいってしまう、とにかく、子供の無事な顔を見るまでは心配で心配で落ち着かない、そういった親の気持ちが、実によくあらわれている句であります。
「十には究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩」
「己れ生ある間は、子の身に代らんことを念(おも)い、己れ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う」であります。生きている間はもちろんのこと、死んでから後も、親はなお、魂魄(こんぱく)をこの世にとどめて子供を護らんことを願うということです。
(第四章 親不孝と地獄)
 
昨五十年十一月二十九日に、百万巻写経勧進は達成していただきましたが、この勧進運動は、西塔の再建と薬師寺式白鳳伽藍の復興とともに、これからますます、無限の目標に向かって進めてまいらねばならないと覚悟を新たにいたしております。百万巻のお写経によって復興いたしましたこの金堂用材は、尊い親子の精神によってととのえられたのであります。
昭和の日本人の浄らかな心の結晶として後世に残るであろう金堂であるだけに、私はどうしても日本の材木で建てるべきだ、と主張いたしました。しかし、これは容易ならざることであると、そして台湾の檜材によるべきであると随分すすめられました。それでも私はいかに近いといっても台湾は外国、どうしても日本の材木でしたい、そろわないのは私たちの努力がたりないからだと意地を通しておりました。
そんなおりでありましたか、とにかく一度ということで台湾の人にお会いすることになったのです。劉圳松(りゅう しゅうしょう)さんという人でした。劉さんと話し合っているうちに、私と同じ大正十三年生れであるその劉さんに、私は戦前の日本精神、伝統的な東洋精神に接する思いがしました。今の私たち日本人が忘れ去ってしまっている日本精神が台湾に残っているのをみたのであります。私は決心しました。台湾の檜をお願いしようと。その方が日本精神にふさわしいと思ったのでありました。劉さんやさらに孫海さんなどの大へんなお力ぞえで台湾檜が送られてくることになりました。
ところが、その頃おこってきたのが中国問題でありました。そのため、或いは台湾(中華民国)からの材木が日本に送られなくなるのではないか、そういう心配が出てきかけたのです。そこで、劉圳松さんは用材の調達、製材にと、会社の全力を傾けなければ、仏さまにご迷惑をかけてしまうことになりかねない、そんなことになっては大変だと、一層力を入れてくださったのですが、それにのみ没頭することは、会社としての利益を考えた場合、困るのではないかとの意見が社内に出てきたそうであります。 その時、劉さんのお母さん(当時七十七才)が、 「何をおいても仏さまのお手伝いを第一にしてもらえないだろうか、もし、そのために損が出るというのなら、私の財産をそちらへまわしてもらってもよろしい。私への親孝行だと思って、仏さまのお手伝いをしてほしい」 といってくださったのであります。
それを聞いて会社の人たち、工場の人たちが、社長に親孝行させてあげようではないか、ということで、会社、工場ともに金堂復興用材のために全力をそそいでくださいました。そのおかげで、材木はかえって予定より半年も早く、四十六年八月末に薬師寺へ着きました。それがどれだけ工事の進行に役に立ったか、はかりしれませんでした。 送られてまいりました檜材は、樹令、何と二千五百年から三千年……。いうなれば、神武天皇やお釈迦さまの時代の木であります。それが三百本。直径はニメートルを超える巨木です。それも一本一本がそれこそ神仏を扱うかごとくていねいな梱包でありました。材木が無事に着いたその具合を見届けるべく劉さんがやってこられたのは、九月末頃でした。一本一本の檜材をていねいに見てまわっているうちに、無事におさまっているのに安心したのか、その場にかかみこんで劉さんは、男泣きに泣き出してしまいました。そしてその涙の中から、 「家門の誉れであります」 という言葉が発せられました。
「家門の誉れ」、日本ではすでに死語になっている言葉です。劉さんはさらに「私が一世一代の親孝行ができたのは仏さまのおかげです。管長さん、ありがとうございました」といって、私の手を強く握りしめてくれた時、いつもの温和な表情に加えて、清々しい気持が、その顔面いっぱいに溢れていました。 こうした仏さまのお引き合せを私も心底からうれしく、そしてありがたく思ったことでした。
その時の劉さんのお話で分ったことですが、劉さんの工場で働いている人たちが「この木は仏さまのお堂になる木だから、仕事といえども足でふんではおそれ多い、ふまないようにしよう」と誓い合ってくださったそうであります。
 
みほとけの 燈明となる 菜種なり 足にてふむなと やさしの母は
 
これは中山徳次とおっしゃる農業歌人の歌ですが、日頃はやさしい母ではあったけれども、お燈明になる菜種だけは決して足でふんではいけない、ときびしい躾を受けたという意味の歌であります。
(第五章 お母さん)

 

 

 

 

あらすじ
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、広く、広く、もっと広く、これが般若心経、空の心なり」『般若心経』は人間のエゴを打ち消し、混迷の時代の生き方を説く仏様の教えの真髄。百二十万読者の支持を得た薬師寺中興の祖、好胤氏の大説法。
 
ひと言
高田 好胤和上の本をもう一冊
 
薬師寺の塔について、私は「この塔は六階に見えますが三階です。誤解(五階)せんといてください」とよくお話しするのです。
(二月 玄奘三蔵の“不東の信念”)
 
俗に「親孝行と火の用心は灰になる前に」と言います。
(二月 玄奘三蔵の“不東の信念”)
 
『大般若経』の説かれるところは“空”の教えです。佛法は無我にて候です。 無我・無欲の教えです。といって欲がなくなれば、死んでしまいます。 無欲とは、悪しき欲望の営みは捨てなさいということです。欲をよりよく生かす道が無欲の教えです。『大般若経』の四百八十万字をわずか約二百七十文字に凝縮した『般若心経』には、無という字が二十一回と、空が七回出てまいります。
無といい空といえば、否定を意味する言葉です。しかし佛教の否定は、あるものをむりやりに無いだの、空にするという、そんな依怙地(えこじ)なものではありません。本来ありもせんもの、実在しないものを、あるが如くに思い込んでしまって、それに固執する。固く自分の思いに凝り固まってしまっているその我執を否定するのが、無であり、空であります。遍計所執(へんげしょしゅう)なる自分に気づかせていただくことです。私は『般若心経』の空という教えを、「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心なり」 といただいております。
『般若心経』をこのお言葉でお導きをいただけたのは、唯識という教えのお導きを小僧のときからちょうだいしていたからだと思います。
(二月 玄奘三蔵の“不東の信念”)
 
私自身のことを振り返ってみても、私は大正十三年生まれで、小学校五年のときに薬師寺に入りました。これはまだ母と一緒に暮らしていたときの話ですが、私はおなすの煮たのと、かぽちゃのたいたのが土台嫌いでした。私がこういう話をすると、姉が、 「あなたな、おなすとかぼちゃだけと違うよ。もうほんまに、野菜という野菜は何にも食べなくて、お母ちゃんどんなに苦労しはったかわからへん」 とこれを、私の弟子たちの前で言うのです。困った姉です。
そういう私の好き嫌いを母はどうにか直さなくてはと思ったのでしょう。そのおなすの煮たのが、ある日、私のお昼の膳についていたのです。 私は「こんなん嫌いやいうことわかってんのに」と、それに箸をつけようとしませんでした。そうしたら、母はそれをそのまま夕食に出してきました。それも食べなかったら、あくる日の朝ご飯にも出してきました。
 こうなったらこっちも長期交戦の構えです。食べなかったらまたお昼ご飯にと、嫌いなおなすに二十四時間つかれっ放しでした。 「うちのお母ちゃん、しつこいなあ」と、どのくらいいまいましく思ったことでしょう。 そうしたら母が「あんた、こんなもんぐらいよう食べんようなことやったら、男の子の値打ちがない」と言いました。もう売り言葉に買い言葉です。 私は「だれが僕に男の子の値打ちみたいなものあるもんか」と答えました。 母にしてみれば私は、母体がもたないからとお医者さんに言われたのを拝み頼んで、それこそ命がけで産んだ男の子です。それなのに本人が男の子の値打ちないねん、と言うのですから辛かったと思います。母は黙って出ていったと思ったら、大きなはさみを持って入り直してきました。 「男の子の値打ちがないなら、切ってあげるからきびしょ出しなさい」 きびしょというのは、男の子が男の子であるという印です。それを切られたら痛い。けれどおなすを食べるのも辛い。二つに一つの選択を迫られ、私は思案のあげく決心しました。
「お母ちゃん、ぼく、やっぱりきびしょ切ってもらうわ」 名状しがたい表情を残して、母は出ていく。その後ろ姿を見たとき、何か知らぬけれどもお母ちゃんかわいそうやな、という気がしたのでした。昨日からお母ちゃん、何にも食べてへんのと違うやろかと、思うてしもうたのです。
そのとき、母に死なれたらかなわぬと思う一心で、思わず箸を持つ手がおなすにのび、ひと□に飲み込んだのです。のどを通ったその瞬間でした。いつ母がその場へ戻ってきていたのか、「好ちゃん」と私の名を呼んでグッと抱きしめてくれた衝撃をいまも忘れることができません。私の頬に伝わった母の涙の感触を思い出します。
思えば母は、一滴の水も一粒のご飯ものどに通さないで、じっと私のおなすを食べるのを待ってくれていたのでした。母はじっとこらえて待つ、その遠い道を選んでくれていたのでした。それがためにおなすを、私にとって母を偲ぶ懐かしい味わいのものにしてくれました。 もしあのとき母の「私は昨日から一滴の水も一粒のご飯ものどを通していないのよ」と催促がましい言葉があれば、「だれがそんなことしてくれと頼んだか」というくらいの言葉を返したことでしょう。
そんな言葉が一口もなかったればこそ、今日おなすをいただくたびごとに、煮たおなすの中から母の背が浮かんできて、大変な辛抱をしてくれたのだなあとの思いがおなかの底から湧いてきます。しみじみと「愛は辛抱だなあ」そして「愛は感謝やな」と、こんな生々しいまでの懐かしい対話がよみがえってきてくれるのだと思います。
(三月 “おやっさん”と法相宗)
 
お釋迦さまは二十九歳のときにご出家なさいました。それに至るまでの青年時代の苦悩の年月をお過ごしになったのが、カピラヴァストゥ国、なかでもカピラ城でした。佛典には迦昆羅城とか迦維羅城などと出てまいります。 このお城がどこにあったかについては、さまざまな説がありました。ところが西暦一八九八年に、お釋迦さまの生誕の地ルンビニーから三十キロほどのピプラハワで、お釋迦さまのお舎利をお祀りしたストゥーパが発見されました。そこに古代インドの文字で「これは佛陀世尊の舎利を納めたものである」と、記されていました。この舎利壺は厳かなものです。 けれども、いまのインドは、もうすでに佛教国ではありません。タイ(当時のシャム)は佛教国ですから、うやうやしくこの舎利をいただかれました。
そして、日本とシャムはたいへん友好親善の関係にありましたから、その一部が明治三十三年に日本の佛教徒に恵贈されました。日本ではこのお舎利を迎え、名古屋に日暹(にっせん)寺を建てて奉安いたしました。いまは国名の変更にともなって、日泰(にったい)寺となっています。名古屋では覚王山の名で親しまれていますが、日本に存在する、由緒正しい、唯一のお舎利で あることをどうぞご記憶ください。
(六月 お釋迦さまのご生涯)
 
倭は国のまほろば 畳(たたな)づく 青垣山 隠(こも)れる倭し うるわし
 これは『古事記』の中に、日本武尊の偲国歌(くにしのびうた)として出てくる歌です。 まほろばとは、本当にいいものが伝承されている、奥床しい、懐かしい、そういう故郷への限りない喜び、誇りを語りつぎ、歌いつぎしてまいりました大和言葉です。
 まほろばの“ま”は“真”、“ほ”は優秀の“秀”です。“ろ”はひろびろとした状態を表し、“ば”は“場所”のばです。
(十月 神佛の国・日本の“お蔭さま”)
 
日本人がいま、お米をこうして常食としていただける時代が来るまでに、どれだけのご苦労がお米づくりの歴史にあったか。とりわけ東北の地は凶作、飢饉、冷害の歴史です。そういうときには、□べらしのための人身売買や、生まれた子供の命を間引くという恐ろしい事態もありました。間引かれていく子供のご回向のためにお地蔵さんを刻み、それにかわいい子供の目鼻を添えたのが、こけし人形の始まりだと聞きました。 いわれてみると、こけしは“子消し”です。その話を聞いたときは胸が詰まりました。お米をいただくありがたさを、本当に厳しくちょうだいいたしました。
(十一月 天地自然のお恵みをいただく“お米の国”)
 
佛教でいちばん短い時間の単位を“刹那”といいます。一秒の七十五分の一です。刹那刹那に最高に価値のある生き方をすることが佛教者の願う生き方です。一刹那に九百回の刹那生滅をくり返して新陳代謝しています。
(十二月 まごころ説法)

 

今日、下の娘が池下へ行くというので地下鉄池下駅すぐの「メツゲライ・イノウエ」のベーコンとソーセージを買ってきてもらいました。覚王山ベーコン(世界金賞)スライス(100g 830円)とニュールンベルガーブラートヴルスト(100g 650円)を夕食にいただきます。ソーセージももちろんおいしいのですが、ベーコンは「なに これ!!!」 感動ものの異次元のおいしさです♪。こんなベーコンは今まで食べたことがありません。塩などの味付けも一切必要ありません。ホームページを見ると、わさびでもおいしくいただけるとのことなので、次の機会はそれも是非とも試してみたいです。大満足のベーコンでした。ごちそうさまでした♪♪

 

 

メツゲライ・イノウエ

名古屋市千種区覚王山通8

 

 

 

今日は大垣へ水を汲みに行った帰り、おちょぼ稲荷近くの「かわしまや」さんへ草餅(90円)を買いに寄りました。ゴールデンウイーク明けにも立ち寄ったのですがコロナの影響でまだ臨時休業中でした。天然よもぎの風味がとてもよくて、中の粒あんとのバランスも絶妙で、とてもおいしくコスパも抜群です。私の中では間違いなくベスト3に入るよもぎ餅(草餅)です。ごちそうさまでした♪

 

かわしまや 三郷店(食べログ)

岐阜県海津市平田町三郷

 

あらすじ

薬師寺の管主であった著者の遺した数々の説法が、生前の語り口そのままに生き生きと再現された説法集。また、自ら記した心のこもった弔辞や祝電・弔電、表白(法要の趣旨)なども収録。
 
ひと言
やっと図書館で予約していた本を受け取ることができました♪。2010年(平成22年)の秋から解体修理に入っている国宝 薬師寺東塔も完成。落慶法要が延期され、まだ拝観等の予定もわからない状態ですが、このコロナの自粛が解除になり、落慶法要も無事に終わったら是非ともお参りしてお写経もお納めしたいです。薬師寺と言えば高田 好胤和上。早く美しくそびえる西塔 東塔を感慨深く眺めるのを楽しみにしています。
 
 
興福寺と薬師寺が法相宗の二つの大本山です。この法相宗は唯識論という論で立つ宗派です。東大寺は華厳経というお経で立つ華厳宗です。
(第一話 仏法はまるい心の教えです)
 
例えば般若心経の中に『色即是空』という言葉がある。「色」とはカラー。カラーだけじゃあない。ルーパー。目に見える、形ある、存在する、目に見えることごとくが、これがルーパー、色であるんだと。「空」。空はシュニャ。目に見えない心の世界。 目に見える物の世界と、目に見えない心の世界が調和する。これが『色即是空』であって、無情なる物はことごとく空である。 こんな理屈、何ぼ知っててもあかんの。それよりも「いただきます」「ごちそうさま」。「喜びと感謝と敬いの心を持っていただきます」と。これ一つ出来たら、これが般若心経です。
(第一話 仏法はまるい心の教えです)
 
心の問題でいえば、ご飯をいただく時に「喜びと感謝と敬いの心を持って、いただきます」なさってもらいたい。こう言うとですねぇ、「言葉に出さなくたって、形・姿に表わさなくたって、心で思うていたら良いんでしょう」と言う人がよくあります。これ言う人はね、心で思ってない人や。心で思うてる人はそんなことは言わんわ。 そして、心でさえ思うていたら、これを隠れ蓑に使う人が多過ぎるの。正しい形が、正しい心を生み出す。「正しい形が正しい心を生み出す母」なんです。有名なこの言葉を忘れないで下さい。 仏法はまるいこころの教えや。腹立つほど、仏法は寂静なるこころの教えでなきゃあならん。なかなか言う通りには出来ませんわ。さあ、一年がかりで、言わいでもええこと言うて修行しますわ。
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
これはお薬師様のご真言。この『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』を明治時代、幕末から明治四十三年までおられた曹洞禅の禅憎が上手に 『おん にこにこ 腹立てまいぞ そわか』  と、変えられた。だからね、腹立てたらいかんて。うん。腹立てたらね、言わいでもいいことを言うてしまう。 だから腹立てた時には、まあ、三回『おん にこにこ 腹立てまいぞ そわか』これをご真言やと思うて唱えてくれと。それで収まらなかったら七回。七回で収まらなかったら十二回。ま、その内にみな腹は横になりますって。
(第一話 仏法はまるい心の教えです)

日本の国に昔からおられたのは、天つ神よりも国つ神。大国主命が代表です。今、出雲におられますけど。大和の国の一の宮というのは、大神(おおみわ)神社ですね。大神神社はどなたをおまつりしてあるかというと、大物主神と申します。それは、どういう神さんかというと大国主命がおられますね、大国主命。大国主命の和魂(にぎみたま)が大物主神です。その、大物主神さんを大和一の宮でおまつりしてるわけです。それは、国つ神のおられるところへ天つ神がやって来られた、天つ神がやって来たけれども、天つ神はその前からおられる国つ神を追い出してしまうんじゃなし、ちゃんと大和一の宮の神さんとしておまつりをしてられます。
(第二話 仏心の種まき)
 
その亀井さんの息子さんが修学旅行でやって来た。で、その時に話をしたんです。中学生、帰りました。奈良、京都の修学旅行の感想を一行ずつで書けて言われて、書かされた。それが文集になってるんですねえ。で、後日、東京へ行った時に、亀井勝一郎先生が「好胤さん、家へちょっと寄ってほしい」。吉祥寺のお宅でした。「これ見て下さい」というて見せて下さった、その文集。その中にこんなん書いたった。一行です。『寺は金閣、庭は竜安、坊主は薬師寺ベリーグッド』と。うん。わたしベリーグッド坊主なんですよ。そういう修学旅行の生徒との触れ合いがなかったら、……私が薬師寺の住職になって、薬師寺の金堂の再建ということを決意しなければならない。その時にただお金だけで、お堂が建っても仏さんは喜んで下さらない。やはり人々の心の中に、仏心の種まきができるということでなかったら、人々の心の中に、仏心とのお出会いをお受けいただくことがなかったら、お堂ばっかり立派に建ったって、仏さんは喜んで下さらないんじゃないか。というんで私は百万巻お写経勧進による薬師寺の金堂復興ということを誓わしてもらいました。
(第二話 仏心の種まき)
 
いちばん最初に香木が出て来るのは日本書紀 巻第二十二。 『推古天皇三年の夏四月(なつうづき)に、沈水(ぢむ)、淡路嶋に漂着れり、其の大きさ一圍(ひといだき)。嶋人沈水ということを知らずして、薪に交(か)てて竈に焼(た)く。其のその姻氣(けぶり)遠く薫る。則ち異(け)なりとして獻(たてまつ)る。』  これが香木が日本の歴史に出てくる最初なんです。どのくらいの香木が出て来たんでしょうねえ。 「ひといだき」と書いてますね。  あの正倉院に蘭奢待という香木が、これはやっぱりひといだき。大きめのひといだきですね。一メートル五十ぐらいあるでしょう。 木はね浮くでしょ。けれどもこの香木の場合は沈むんです。これは特殊な木なんですが、日本にはないんです。ジャワとかスマトラとかビルマとかインドとかで、大地に底深く埋もれて、あの沈(ぢん)のところだけが残るんです。  それが香木。大変貴重なもんです。ですから水に沈むんです。それで、沈香という。水に沈むから 「ぢむ」というんです。  これがやっぱり海流にのって、淡路へ漂着したんでしょう。焚いたところが何ともいえんいい匂い がする。そこで、淡路島の人が推古天皇に献上した。その献上したその木で、仏さんを刻んだ。そして仏さんを刻んだ残りの木、香木が法隆寺にずっと伝わってきた。先ほど申し上げた蘭奢待。蘭奢待というのはおめでたいという、そういう意味あいの言葉のようで す。で、正倉院というのは東大寺の宝物を納めた蔵なんです。それが、宮中へ献上されたもんで、勅封になってる。本来は東大寺。その蘭奢待という名の中に、東大寺という文字がちゃんと潜んでるんです。なかなか、名付けるにしても雅なもんです。奥ゆかしいですわ。
(第七話 お香を聞くということ)
 
結局、仏教は己の未熟さを学ばしていただく。言うなれば「御利益にあずかれるような自分でない自分に気づかしていただく」という、これが一番の頂戴する御利益でございます。  御利益がいただける自分でないという、そういう自分をお見せいただくということ。仏法は未熟なる自分に気づかしていただく。これがお導きであります。
(第九話 仏教に奇跡はない)
 
般若心経のお写経をなさっている方がおられますけれども、その般若心経に「色即是空」っていう言葉がありますね。あの「色」というのは、カラーじゃないんです。もちろんカラーも含んでますけど、インドの言葉では、ルーパー。目に見える形ある物の世界。これが「シキ」なんです。色即の「ソク」っていうのは、すなわち。すなわちっていうのは、大義を変えない。で、そのまんまという、あれが「即」という字の意味です。で、それがね「空」だというんです。「クウ」っていうのは、「空」って字が書いてある。目に見えない心の世界が「空」なんです。 ですから、形ある目に見える「物の世界」と、目に見えない形のない「心の世界」。これが調和するということが「色即是空」ですからね。
ですから、私は、ご飯をいただく時に、「いただきます。ごっつぉうさん」これだけはおっしゃってもらいたい。「喜びと感謝と敬いの心をもっていただきます」手を合わせてご飯をいただいてもらいたい。 正しい形が正しい心を生み出す母であると。形が心を産み出すんですよ。産み出された心が形を造り出す。形と心が調和する状態がたかなって行く、これが文化なんです。だから般若心経は形と心の調和、「色即是空」。文化なる教え。これが「般若心経」ということです。 ですから、一番終りに、ギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ギャーテー(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅憎羯諦)と書いてあります。 ギャーテー、ギャーテーって「行こう 行こう」ですが。ハーラー、ギャーテーって「さあ行こう」です。ハラソー、ギャーテーって「皆で一緒に行きましょう」って。どこへ、薬師寺さんへって、うん。ギャーテー、ギャーテー「行こう 行こう」。ハーラー、ギャーテー「さあ行こう」。ハラソー、 ギャーテー「皆で一緒に行きましょう」。皆の憧れの、理想の、幸せの世界へ。皆で心を、力を合わせ、あたたかい世作りにはげみましょう。これがギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ギャーテー。
 そのお導きをあたたかい家庭作りに、明るい職場作りに、豊かな地域社会作りに、頂戴する。これ が般若心経です。ですからね、理屈言わんと、なさって頂きたいんですよ。
(第九話 仏教に奇跡はない)
 

 

 

今日のお昼は海鮮丼テイクアウト専門の「海鮮丼 しろくま 丼丸」の一番人気のしろくま丼(540円)です。初めての利用なので、並で どれぐらいの分量なのかと思いましたが、ネタは私には十分な分量でした。これでワンコインとは…圧倒的なコスパです。欲を言えばシャリがもう少し多くてもいいかなと思いました。次は100円プラスしてシャリ大盛にして色々試してみようかな。ごちそうさまでした。

 

 

海鮮丼 しろくま 丼丸

名古屋市西区上名古屋2

 

あらすじ
嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現。役人たちは周章狼狽する。やがて京の都はテロに震えだし、坂本龍馬も非業の死を遂げる。将軍慶喜は朝敵となり、江戸城は開城、戊辰戦争が起こる。新政府が樹立され、下野した西郷隆盛は西南戦争で城山の地に没す―。波乱に満ち溢れた二十五年間と歴史を動かした様々な男たちを、著者独自の切り口で、語り尽くす。
 
ひと言
ご存じ歴史探偵の半藤一利さん。どうしてそんなに詳しく調べられたの?と思うぐらい緻密な調査にはいつも脱帽です。あえて言えば詳しすぎて、私のようなど素人には一部ついていけないかもということかなぁ。つい先日の5月21日には卒寿を迎えられましたが、歴史探偵として新たな謎を解き明かしてくださることを楽しみにしています。
 
いまも薩長史観によって、一八六八年の暴力革命を誰もが立派そうに「明治維新」といっています。けれども、明治初年ごろの詔勅、御誓文、太政官布告、御沙汰や御達しの類を眺めてみると、当時は維新などという言葉はまったくといっていいほど使われてはいないようなのです。革命で徳川家を倒したものの、民草は〈やがて薩長が衝突、諸藩がふたたび動き、天下をあげての大乱になるさ〉と思っていたのです。当時の狂歌はからかっています。
上からは明治だなどといふけれど 治まるめい(明)と下からは読む
(はじめの章「御瓦解」と「御一新」)
 
当時、多くの落首や狂歌が作られまして、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たつた四杯で夜も眠れず」はご存じだと思いますが、その他にも「陣羽織を異国の波で洗ひ張り 返してみれば裏が(浦賀)たいへん」「いにしへの蒙古の時とあべ(阿部)こべに 波風たてぬ伊勢の神(伊勢守)かぜ」「甲冑は異国のおかげで土用干し」「三味線をひかずに江戸はから騒ぎ」「よく来たな、アメリカ様にそつと言ひ」―― これは沿道で儲けた人が詠んだんじゃないでしょうか。こうして黒船来航の大騒ぎが終わったのです。
(第一章 幕末のいちばん長い日)
 
洋式学校、のちの長崎海軍伝習所の設立準備のための専門委員に抜擢されます。この時の勝さんの意見書は、平たく言えば次のような内容でした。「海からくる奴を防御するには何よりも軍艦がいちばんだ。しかし、今日それを手に入れて明日から役に立てようなどとそんなうまい事にはいきません。なぜなら、どんな軍艦でも使う者が不熟練では玩具も同然。だから軍艦をどんどん買い入れると共に、海軍生を養成することが第一です。本当の日本の軍艦と海軍生が出来上がらなくては、公儀の苦しみ、いや日本の苦しみは、いつまで経っても同じ事でしょう」その他いろんな事を言っているのですが、勝さんが主張した一番大事な点は、軍艦を買うこと(造れれば一番いいのですが無理ですので)、同時にそれを動かす海軍の人たちを育てること ―― それが日本を救うたった一つの道であるということです。
(第一章 幕末のいちばん長い日)
 
幕府は泥棒をみてからあわてて縄を綯(な)いはじめます。大船停止令(造ったり買ったりすること厳禁)がついに解除されたのが嘉永六年九月。海軍力の大切さに気づいたのです。いよいよ近代日本のスタートです。さきほど申しましたように、幕府がそれまでの方針を変えてあらゆる人間に意見を求めたことが、のちのち尊皇論にたつ幕府批判に、あるいは攘夷のイデオロギーに基づいた幕府批判へと繋がってゆき、尊皇攘夷の大議論、そして騒勤がはじまるのです。
(第一章 幕末のいちばん長い日)

中岡慎太郎は京都の近江屋二階で坂本龍馬とともに、刺客に斬られて命を落とすことになります。龍馬はそのときは、倒幕の必要はない、むしろ幕府も入れた共和政治で国を運営していったほうがいいという論に変わっていますが、中岡慎太郎は頑として倒幕論を変えませんでした。近江屋の二階で二人が話し合っている時、龍馬は刀を少し離れた床の間に、中岡は長い刀を襖の後ろ側に置いていました。そこに斬り込まれたため中岡は小刀で立ち合うことになりました。なぜ刀をそんなに離して置いていたのか。考えの異なる二人が議論するうち、喧嘩になって刀を抜く危険性がある。それを避けるために前もって離しておいたのではないか、そう私は考えたりするのです。それほど中岡慎太郎は激しい倒幕論者でした。
(第六章 皇国の御為に砕身尽力)

そこで桂は十二月二十八日、品川弥二郎、三好軍太郎ら長州の侍を従えて三田尻を 出発し、翌慶応二年一月八日、わざわざ伏見まで迎えに来た西郷と村田新八の案内で京都二本松の薩摩屋敷へ入ります。ここで交渉に入れば話はあれよあれよとまとまったはずなんですが、トントンとはいかずに、ふたたび龍馬の出番がやってきます。
一月二十日、海技隊のほうの仕事に忙しかった龍馬がたまたま上京して、「もう話はついたんだろうな」と思い込んで上機嫌で薩摩屋敷に入ります。と、話し合いは何も進んでいなかったのです。桂小五郎に聞きますと、来て以来、毎日ご馳走攻めで歓待されながら楽しくやっているが、同盟の話はまったく出ないというのです。龍馬はびっくりして、 「いったいどういうことなんだ、それならあんたが自分から言い出せばいいじゃないか」 と詰め寄ると、桂は、「入京いらい、たしかに薩摩側から美酒佳肴の厚遇を受けている。しかし、今度の同盟に関して、薩摩はおくびにも出さないが、わが方から提言するわけにはいかぬ。幕府の軍勢にこてんぱんにやられて青息吐息、孤立無援の長州藩が同盟を持ち出せば哀れみを乞うことになる。あなたは簡単にそう言うけれど、士道の意地からそれはできない。もう歓待にも飽きた、明日にも帰るつもりである。かくなるうえは幕府と全面的に戦い、防長二土が焦土になろうと、薩摩が残って皇国の為に尽くしてくれるなら満足に思う」 と説明するのです。龍馬は桂を叱ります。 「何を言ってんだ。侍の意地だとか、藩のプライドとか何だとか、そんなことを言っている時ではないだろう」 龍馬は非常に闊達な人であまり怒らなかったそうですが、生涯に怒ったことが二度だけあり、これがその一回であったとか。もう一回は、いろは丸が紀州藩の船に衝突されて沈んだ時、紀州藩との交渉で怒髪天を衝いたといいます。
ともかく、この機を逸しては二度とチャンスはめぐってこない。何が藩の名誉だ、武士の意地だ、と本気で今度は西郷さんを怒鳴ります。「俺たちが両藩のために挺身尽力するのは、決して両藩のためにでもなく、もちろん自分たちの名誉や全のためでもない、この国のためなんだ。お互いにいろいろ言い分はあるだろうが、そういった区々の事情を脱却し、何ぞ丹心を披瀝(ひれき)し、天下のために将来を協議しないのか」 中岡らとともに、命を狙われながらも国のためを思ってやっているのだから、心の底から手を結んでほしいと訴えますと、西郷さんは「わかった、悪かった、こちらから同盟を持ちかけよう」と小松とともに桂ら長州藩三人と会います。そして長州藩がこれまでの苦悩を洗いざらい吐き出すのを黙って聞き、「ごもっともでごわす」といちいち頷いて、同盟を結ぶこととなったのです。一月二十一日、ついに薩長同盟が成ります。
(第六章 皇国の御為に砕身尽力)

 

金曜日 小山ロールを娘宅へ届けた折、代わりにと「ミスター チーズケーキ」のチーズケーキをもらい、本日いただきました。店舗を持たずWebのみでの販売で、なかなか手に はいらないという幻のチーズケーキです。シェフおすすめの常温で1時間半解凍していただきます。めちゃくちゃおいしいです♪ チーズの風味はもちろんのこと、レモンの爽やかな香りとトンカ豆(シナモンのように感じたのですが、原材料にはシナモンがないのでトンカ豆が何者かは知りませんが おそらくこの味なんだと思います)がとてもよくマッチして絶妙なおいしさです。まだ半分残っているので、数日後今度は解凍時間を短めにしていただきます。とてもおいしいミスチごちそうさまでした♪

 

Mr.CHEESE CAKE(ミスターチーズケーキ)

今日 多くの人の想いが詰まった小山ロールを買いにいきました。

 

 

5月14日 愛知県の非常事態宣言が解除となり、少しずつ市民生活が戻りだし、JR名古屋タカシマヤも19日より営業再開となりました。

その数日前 タカシマヤのホームページを観ていると21日より「パティシエ エス コヤマ」の小山ロールが販売になるとの案内が…。

ずっと外出自粛を頑張り、新型コロナの感染者ゼロを連続で達成している東海3県の人たちに、ご褒美であるかのような素敵なお知らせでした。

 

 

 

それにしてもJR名古屋タカシマヤのやることの早いこと早いこと。タカシマヤの山田 正男 社長がエス コヤマの小山 進パティシエに タカシマヤが営業再開したら 一刻も早く小山ロールを届けてもらって名古屋の人を笑顔にして欲しいと前もってラブコールを送っていたんだと思います。

 

 

その想いに応えて1日1600本しか製造できない小山ロールの120本を わずか営業再開3日目から名古屋に届けてくれた小山 進パティシエの心意気 がとてもうれしいです。

 

 

小山ロールやチョコレートがとても美味しくてエス コヤマのファンという人も多いかと思いますが、小山 進のケーキやチョコレートに対する想い、情熱、人柄が好きでエス コヤマのファンという人も多いと思います。私もその一人です。日本一の売り上げを誇る 2020 アムール デュ ショコラで売り上げ堂々3位なのがその証です。

 

 

 

いつも兵庫の三田から届けてくれるので、タカシマヤでの販売時間は2時。70分前に列に並びましたが、すごい人で一瞬 もう買えないかもと思ってしまいました。多くの人が小山ロールをすごく心待ちに、楽しみにしていたことがよくわかります。

 

本を読んで並んでいると約1時間前に希望個数カウント券が配られました。よかった。娘夫婦の分も買うことができます。私の後ろ十数名のところで120本完売となりました。

 

 

非常事態宣言が解除になったとはいえ、1時間以上も密接状態で並ぶのはイヤだなぁと思っていましたが、「鈴懸」さん横の出入り口の外の地下通路に距離を取って並ぶ形で感染リスクもなく安心して並ぶことができます。さすがタカシマヤ感染対策もバッチリです。

 

 

2015年からJR名古屋髙島屋を率いてこられた山田 正男 社長もこの5月末の株主総会で勇退とのこと。とても素敵なデパートに仕上げられての勇退ほんとうにお疲れさまでした。ありがとうございました。

そして名古屋の人にも美味しい小山ロールを食べさせてあげようと届けていただいている小山 進パティシエにも感謝の気持ちでいっぱいです。今まで自粛自粛で笑顔が少なかった多くの家庭で 今日は小山ロールのおかげで「おいしいね」とみんな笑顔になれていることと思います。うちもそうでした。願わくばもう少し頻繁に大量に小山ロールを名古屋に届けていただけるとなおうれしいです。

 

一日も早い新型コロナの収束と、今までの生活が戻りみんなの心からの笑顔が早く戻ることを祈念しています。