あらすじ
私たちの生命は、大勢の先祖の喜びや悲しみでできている。一番身近な先祖である父母への孝行を怠ってはならない。薬師寺管主である著者は、「人の此の世に生るるは、宿業を因として、父母を縁とせり。父にあらざれば生せず、母にあらざれば育せず」「母の情を性命とす」と説く〈父母恩重経〉の教えに基づき、人の存在の幽遠さと、親孝行への懈怠の罪深さを語り、そこからの救いのひかりを指し示す。

ひと言
なつかしい芥川龍之介の「杜子春」や「蜘蛛の糸」の話、「まごころ説法」で抜粋した 母と私と茄子 などが紹介されていて、また引き込まれて読みました。下にも本文を抜粋したのですが、十種の親の大恩をWikipediaの解説も併せて記載します。
懐胎守護(かいたいしゅご)の恩
始めて子を体内に受けてから十ヶ月の間、苦悩の休む時がないために、他の何もほしがる心も生まれず、ただ一心に安産ができることを思うのみである。
臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩
出産時には、陣痛による苦しみは耐え難いものである。父も心配から身や心がおののき恐れ、祖父母や親族の人々も皆心を痛めて母と子の身を案ずるのである。
生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩
出産後は、父母の喜びは限りない。それまでの苦しみを忘れ、母は、子が声をあげて泣き出したときに、自分もはじめて生まれてきたような喜びに染まるのである。
乳哺養育(にゅうほよういく)の恩
花のような顔色だった母親が、子供に乳をやり、育てる中で数年間で憔悴しきってしまう。
廻乾就湿(かいかんじつしつ)の恩
水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた所に子を寝かせ、湿った所に自ら寝る。
洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩
子がふところや衣服に尿するも、自らの手にて洗いすすぎ、臭穢をいとわない。
嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩
親は不味いものを食べ、美味しいものは子に食べさせる。
為造悪業(いぞうあくごう)の恩
子供のためには、止むを得ず、悪業をし、悪しきところに落ちるのも甘んじる。
遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩
子供が遠くへ行ったら、帰ってくるまで四六時中心配する。
究竟憐愍(くつきょうれんみん)の恩
自分が生きている間は、この苦しみを一身に引き受けようとし、死後も、子を護りたいと願う。

お釈迦さまは、お父さん、お母さんには「十種の恩徳」があると、その深く広大な恩徳を、十の徳目に分けて説明しておられます。十の徳目を先にならべて、そのあとにひとつひとつの具体的な説明がなされています。
「一には懐胎守護(かいたいしゅご)の恩」 
これを「悲母、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒ちて、身、重病を感ず、子の身体之に由りて成就す」と説明なされています。
「二には臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩」 「三には生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩」
この二つの恩徳は「月満ち時到れば、業風催促して、徧身痘痛し、骨節解体して、神心悩乱し、忽然として身を亡ぼす。若し夫れ平安になれば、猶お蘇生し来るが如く、子の声を発するを闇けば、己れも生れ出でたるが如し」という具合に、十の徳目にそれそれ説明があります。
これは前にも述べましたが、摩耶夫人がお釈迦さまをお生みになる時、大変な難産であったところから、出産における母親の苦しみというものは、お釈迦さまご自身の八十年のご生涯を通じての実感であったと拝察されます。
「四には乳哺養育(にゅうほよういく)の恩」 
これは「其の初めて生みし時には、母の顔(かんばせ)花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す」のことです。垂乳根という枕詞の所以となりました乳房の形の崩れも、この乳哺養育の結果であります。
「五には廻乾就湿(かいかんじゅうしつ)の恩」
「水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁(あした)にも、乾ける処に子を廻わし、湿(うるお)える処に己れ臥す」がこれにあたります。夜中にオシッコをした子供が気持が悪くてむずかります。いち早く目をさました母親はオシメを取りかえる、けれどもオシッコでふとんはぬれています。そのぬれているところに母親は自分の身をおき、乾いたところで気持よく子供をねかせてくださる、これが廻乾就湿です。こういったことは子供のものごころのつかない頃のことなので、子供は全く覚えていません。しかし、その子供が成長して自分の子供をもった時に、はじめてこういった、廻乾就湿の恩に目覚めるものです。
「六には洗灌不浄(せんかんふじょう)の恩」
「子己が懐に屎(くそま)り、或は其の衣に尿するも、手自から洗い濯ぎて、臭穢を厭うこと無し」がこれです。
「七には嚥苦吐甘(えんくとかん)の恩」
これは「食味を口に含みて、これを子に哺むるにありては、苦き物は自から嚥み、甘き物は吐きて与う」であります。美味しいものはみんな子供にたべさせて、自分は残ったものをかたづけている母の姿を思い出します。
「八には為造悪業(いぞうあくごう)の恩」
「若し夫れ子のために、止むを得ざる事あれば、躬(み)ずから悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず」がこれにあたります。子供が欲しいといえば、悪いこととは知りつつも、つい他人さまの花を手折ってしまう、親の悲しさであります。
「九には遠行憶念(おんぎょうおくねん)の恩」
「若し子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りても之を憶(おも)い、寝てもさめても之を憂う」がこれにあたります。
とんぼとり 今日はどこまで いったやら
という加賀の千代女の句が思い出されます。この句は、遠行憶念そのものずばりといえましょう。親の心配をよそに、子供はおかまいなしにどんどん遠くへ遊びにいってしまう、とにかく、子供の無事な顔を見るまでは心配で心配で落ち着かない、そういった親の気持ちが、実によくあらわれている句であります。
「十には究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩」
「己れ生ある間は、子の身に代らんことを念(おも)い、己れ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う」であります。生きている間はもちろんのこと、死んでから後も、親はなお、魂魄(こんぱく)をこの世にとどめて子供を護らんことを願うということです。
(第四章 親不孝と地獄)
 
昨五十年十一月二十九日に、百万巻写経勧進は達成していただきましたが、この勧進運動は、西塔の再建と薬師寺式白鳳伽藍の復興とともに、これからますます、無限の目標に向かって進めてまいらねばならないと覚悟を新たにいたしております。百万巻のお写経によって復興いたしましたこの金堂用材は、尊い親子の精神によってととのえられたのであります。
昭和の日本人の浄らかな心の結晶として後世に残るであろう金堂であるだけに、私はどうしても日本の材木で建てるべきだ、と主張いたしました。しかし、これは容易ならざることであると、そして台湾の檜材によるべきであると随分すすめられました。それでも私はいかに近いといっても台湾は外国、どうしても日本の材木でしたい、そろわないのは私たちの努力がたりないからだと意地を通しておりました。
そんなおりでありましたか、とにかく一度ということで台湾の人にお会いすることになったのです。劉圳松(りゅう しゅうしょう)さんという人でした。劉さんと話し合っているうちに、私と同じ大正十三年生れであるその劉さんに、私は戦前の日本精神、伝統的な東洋精神に接する思いがしました。今の私たち日本人が忘れ去ってしまっている日本精神が台湾に残っているのをみたのであります。私は決心しました。台湾の檜をお願いしようと。その方が日本精神にふさわしいと思ったのでありました。劉さんやさらに孫海さんなどの大へんなお力ぞえで台湾檜が送られてくることになりました。
ところが、その頃おこってきたのが中国問題でありました。そのため、或いは台湾(中華民国)からの材木が日本に送られなくなるのではないか、そういう心配が出てきかけたのです。そこで、劉圳松さんは用材の調達、製材にと、会社の全力を傾けなければ、仏さまにご迷惑をかけてしまうことになりかねない、そんなことになっては大変だと、一層力を入れてくださったのですが、それにのみ没頭することは、会社としての利益を考えた場合、困るのではないかとの意見が社内に出てきたそうであります。 その時、劉さんのお母さん(当時七十七才)が、 「何をおいても仏さまのお手伝いを第一にしてもらえないだろうか、もし、そのために損が出るというのなら、私の財産をそちらへまわしてもらってもよろしい。私への親孝行だと思って、仏さまのお手伝いをしてほしい」 といってくださったのであります。
それを聞いて会社の人たち、工場の人たちが、社長に親孝行させてあげようではないか、ということで、会社、工場ともに金堂復興用材のために全力をそそいでくださいました。そのおかげで、材木はかえって予定より半年も早く、四十六年八月末に薬師寺へ着きました。それがどれだけ工事の進行に役に立ったか、はかりしれませんでした。 送られてまいりました檜材は、樹令、何と二千五百年から三千年……。いうなれば、神武天皇やお釈迦さまの時代の木であります。それが三百本。直径はニメートルを超える巨木です。それも一本一本がそれこそ神仏を扱うかごとくていねいな梱包でありました。材木が無事に着いたその具合を見届けるべく劉さんがやってこられたのは、九月末頃でした。一本一本の檜材をていねいに見てまわっているうちに、無事におさまっているのに安心したのか、その場にかかみこんで劉さんは、男泣きに泣き出してしまいました。そしてその涙の中から、 「家門の誉れであります」 という言葉が発せられました。
「家門の誉れ」、日本ではすでに死語になっている言葉です。劉さんはさらに「私が一世一代の親孝行ができたのは仏さまのおかげです。管長さん、ありがとうございました」といって、私の手を強く握りしめてくれた時、いつもの温和な表情に加えて、清々しい気持が、その顔面いっぱいに溢れていました。 こうした仏さまのお引き合せを私も心底からうれしく、そしてありがたく思ったことでした。
その時の劉さんのお話で分ったことですが、劉さんの工場で働いている人たちが「この木は仏さまのお堂になる木だから、仕事といえども足でふんではおそれ多い、ふまないようにしよう」と誓い合ってくださったそうであります。
 
みほとけの 燈明となる 菜種なり 足にてふむなと やさしの母は
 
これは中山徳次とおっしゃる農業歌人の歌ですが、日頃はやさしい母ではあったけれども、お燈明になる菜種だけは決して足でふんではいけない、ときびしい躾を受けたという意味の歌であります。
(第五章 お母さん)