あらすじ
「誰の心にも淀みはある。でも、それが人ってもんでね」江戸、千駄木町の一角は心町(うらまち)と呼ばれ、そこには「心淋し川(うらさびしがわ)」と呼ばれる小さく淀んだ川が流れていた。川のどん詰まりには古びた長屋が建ち並び、そこに暮らす人々もまた、人生という川の流れに行き詰まり、もがいていた。青物卸の大隅屋六兵衛は、一つの長屋に不美人な妾を四人も囲っている。その一人、一番年嵩で先行きに不安を覚えていたおりきは、六兵衛が持ち込んだ張方をながめているうち、悪戯心から小刀で仏像を彫りだして……(「閨仏」)。ほか全六話。生きる喜びと生きる哀しみが織りなす、著者渾身の時代小説。
(第164回 直木賞受賞作)
心淋し川
十九歳のちほは、志野屋という仕立屋から仕事を回してもらっていますが文句ばかり言われ、自分の住む町や家も嫌いでした。そんなちほにとって唯一の楽しみは、志野屋で会える上絵師の元吉と会うことでした。会えば会うほど期待は膨らみ、ずっと一緒にいたいと願うようになっていました。しかしある日、父親が呑み屋で客を殴ったと知らせが入り、ちほに嫌な予感が走ります。
閨仏
りきは二十歳の時から六兵衛の長屋に住むようになり、もう十四年が経ちました。この家にはりき含めて四人の妾がいて、いずれもおかめで醜女に分類されるという共通点がありました。年齢を重ねるにつれて相手にされなくなり、いつか長屋を追い出されてしまうかもしれない。不安や寂しさを抱えるりきですがある日、妙な悪戯心が湧いて張形という道具に小刀で顔を掘ります。それを見た六兵衛はりきの予想を遥かに超えて評価され、仏を彫ることに次第に没頭していきます。
はじめましょ
すべての食事が四文銭で片がつく『四文屋(しもんや)』。与吾蔵は先代から店を受け継ぎ、やり甲斐を感じていました。そんなある日、道を歩いていると聞いたことのある歌が聞こえます。歌っていたのは六、七歳の少女・ゆかですが、与吾蔵にその歌を聞かせてくれたのはかつて捨てた女性・るいでした。別れた時、るいは誰かの子どもを身ごもっていた。ゆかの母親はるいで、自分の子どもではないか。そんな疑問が生まれ、それから与吾蔵は母親を待つゆかと会うようになり、やがてゆかの親のことや歌の意味を知ることになります。
冬虫夏草
吉は大怪我を負って歩けない息子・富士之助と二人暮らしで、心町に引っ越してきて五年。富士之助の吉に対する暴言は止まらず、周囲の人間も止めさせることを諦めていました。そんなある日、町を訪れた薬売りの男性が吉のことを知っていて、高鶴屋のおかみと呼びます。吉は十年前のことを思い出し、親子がなぜ今のような生活を送ることになったのかが描かれます。
明けぬ里
ようは夫の桐八の賭博による浪費癖に困り、よくケンカしていました。そんなある日、悪阻で難儀しているところを女性に助けてもらいますが、その顔を見て驚きます。女性は、かつて同じ遊郭で働いていた明里でした。遊郭一の美貌を持ち、常に妬ましいと思っていた相手。ようは会いたくないと思っていましたが、明里は久しぶりの再会を喜び、昔話をします。明里には何か迷いが感じられ、その時はその正体が分かりませんでしたが、後に明里の言葉の真意に気が付きます。
ひと言
直木賞の受賞作であり、本屋大賞にもノミネートされているだけあって納得の作品でした。「閨仏」は下品な感じはなく、暖かい作品に仕上げる文章力が直木賞に選考されたんだと思います。「心淋し川」の「誰の心にも淀みはある。事々を流しちまった方がよほど楽なのに、こんなふうに物寂しく溜め込んじまう。でも、それが、人ってもんでね」という言葉が心に残りました。
「心川(うらがわ)でしよ? 心町の川だから心川。わざわざそう呼ぶ人は、滅多にいないけど」 「本当の名は違うんだ。心川はそれを縮めているだけでね、町の名もそこからついた。つまりは川の名が先で、町の方が後というわけだ」「何というの?」「心淋(うらさび)し川というそうだ」
誰かが戯れにつけたのか、何か由来があるのか、そのあたりは差配にもわからないという。「ただ、その名をきいたとき、どうにも惹かれてね。差配の話を引き受けることにした」「趣があるのは名ばかりで、汚い溜まりだと知ってがっかりしたでしよ?」「いや、そんなことはないよ。誰の心にも淀みはある。事々を流しちまった方がよほど楽なのに、こんなふうに物寂しく溜め込んじまう。でも、それが、人ってもんでね」
(心淋し川)
差配は、一冊の本を差し出した。むつかしい漢字が並んでいて、与吾蔵にはとても読めない。「ほら、与吾さんがよく唄ってる、地口尻取り。あれの種本だよ」え、と思わず本を開いた。やはり読むには難儀な代物で、恨めし気に差配を仰ぐ。「あすかやまの後は、こう続くんだ。かやま町には薬師さま しさまのかち路はりまがた まかたの名方ふたたびぐわん、てね。幡随院や助六も、その後に出てきたよ」へええ、と読めない書物をながめる。「読み仮名をふれば難はなかろうし、先を知りたかろうと思ってな」この本を誰より欲しているのは、与吾蔵ではない。目をきらきらさせる、いかにも嬉しそうな子供の笑顔が浮かんだ。「差配さん、ひとつ、伺いやすが」ひと息に酒が抜け、かっきりと頭が冴える。本を手にして土間に下りた。「鳶が鷹を生むことだって、ありやすよね?」「そりゃあ、あるだろうな」「ありがとうございやす、差配さん。これからちょっと、出掛けてきやす!」俯に落ちぬ風情の差配を残して、長屋をとび出した。初詣の待ち合わせ場所は、いつもの石段だった。まだ跡のついていない、まっさらな雪に足を踏み出す。はじめましょ――。ゆかの声が、朗らかに耳にこだました。
(はじめましょ)































