あらすじ
京の郊外に居を構え静かに暮らしていた雨宮蔵人と咲弥だったが、将軍綱吉の生母桂昌院の叙任のため、上京してきた吉良上野介と関わり、幕府と朝廷の暗闘に巻き込まれてしまう。そして2人は良き相棒である片腕の僧、清厳とともに江戸におもむき、赤穂・浅野家の吉良邸討ち入りを目の当たりにする事となるのだが。2人の運命は如何に……。


ひと言
今までにない切り口の忠臣蔵。おもしろいですがちょっと脱線しすぎかも……。今回も和歌がいいアクセントになっています。


「そなたが、浅野の大石なる者の言葉を御台所様にお伝えしたとは、まことか」と声をかけた。咲弥は于を畳につかえ、 「さようにございます」と答えた。 「なにゆえ、さようなことをいたしたのや」「なにゆえと申されますと」 「田舎武士の世迷言を、いちいち御台所様に申し上げてなんとしなはるのや」 「武士の言葉にはいのちがこもっております。世迷言ではございません」咲弥は毅然として答えた。 「ほう、そうか。それなら大石は言うたことは必ずやると言わはるのやな」「いのちに代えて成し遂げましょう」「そうか、そなたにとって武士とは花か ――」町子は咲弥をじっと見た。咲弥はふと和歌を口にした。
散るとみればまた咲く花のにほひにも 後れ先立つためしありけり
西行の和歌である。散る桜があれば、それに遅れて美しく映えて咲く桜もある、これがこの世の習いだという。大石たちが遅れても咲く花だというのである。「咲くか咲かぬか見届けさせてもらいますえ」町子はひややかに言うと、定子について中奥へと向かった。
(六)

斎は中庭を見た。「ひとがひとを想うことは不義ではございますまい」清厳の言葉には思いがこもっていた。「さように思われまするか」「わたしにも覚えがあることです」「ほう、清厳殿にもございますか」「されど、わたしはそのことを恥じてはおりませぬ。ひとを想えて幸いであったと思います」清厳は微笑した。斎はうなずくと、和歌を口にした。
山はみなかをりし花の雲きえて 青葉が上を風わたるなり
斎自作の和歌である。山の上の花のような雲が消えて、いまは青葉の上を風がわたる、という意だ。斎にとって、町子は花の雲だった。「この世で最も美しいものとはひとへの想いかもしれませぬな」斎の声がわずかに震えた。そのころ咲弥は柳沢屋敷に移されていた。……。
「お願いの儀がございます」「なんですやろう。上様の寝所に侍りたくないというのなら、わたしに言うても無駄なことや。右衛門佐様にできんことがわたしにできるわけがおへん」 町子はつめたく言った。「さようなことではございません。これを神田の飛脚問屋、亀屋に届けていただきたいのです」咲弥は懐から一枚の短冊を取りだした。咲弥が右衛門佐から素養を試された時に認(したた)めた短冊である。「これを届けてどうするのや」町子は短冊を手に取って見つめた。「亀屋の女主人は、わたくしの存じよりの者でございます。わたくしからと申せば、夫の雨宮蔵人に届けてくれましょう。そのおり、わたくしが柳沢様の御屋敷にいることをお伝えいただきたいのです」「さようなことをして、どうなる」「夫はわたくしを救いにまいりましょう」「ここは天下の柳沢の屋敷や。一介の牢人ずれに何ができると言うのや」「蔵人は何度生まれ変わろうとも、いのちに代えてわたくしを守ると言ってくれました」町子は眉をひそめた。「さようなことをそなたは信じてはるのか」「信じております」咲弥は町子の目を見つめ和歌をつぶやいた。
今ぞ知る思ひ出でよと契りしは 忘れんとてのなさけなりけり
町子ははっとした。かつて斎が町子に贈った西行の和歌である。「そなた、どうしてそれを」「京におりましたころ、親しくしていた御方が想いをかけた方にこの和歌をお伝えしたいと話しておられました」[そうやったのか ――」「町子様、わたくしにはその御方の想いがわかります。ひとたび胸に抱いた想いは消えることはどざいません」町子はしばらく咲弥を見返していたが、ふとため息をつくと短冊を懐に入れた。立ち上がり、部屋を出ていきかけて立ち止まった。「確かに、この短冊、そなたの申すところに届けさせよう。されど、そなたの夫が救いに来ると信じたわけではないえ」と言った。咲弥は顔を輝かせて頭を下げた。「ありがたく存じます」 町子は掻取の裾をさばいた。「女人を妬ましいと思うたのは初めてのことや」町子の声はすずやかだった。
(七)