あらすじ
江戸後期の九州・小倉藩。勘定方の青年・印南新六には、生涯をかけて守ると誓った女性・吉乃がいたが、彼女は運命のほころびによって他家に嫁いでしまう……。そして、後に「白黒騒動」と呼ばれる争いに藩全体が巻き込まれてゆくなか、吉乃とその家族を守るため、新六は意に染まぬ刺客となり己の命を懸ける。実際に小倉藩であった史実をもとに、互いに想いを交わしながらも別々の道を選ぶことしかできなかった男と女の哀情を描く、感動の傑作時代小説!
ひと言
葉室 麟さんらしい不器用な武士の生きざまを描いた作品で、ほんとうにあった「白黒騒動」を題材にしているが、返す返すも藩主 小笠原忠固のアホさぶりに腹が立つ。
「新六殿にはこれまでも何度か旦那様を助けていただいております。わたくしからお力を貸していただきたいとお願いしたこともございますので」吉乃は目を伏せて言った。秀五郎は苦い顔をして吉乃を見た。「印南殿に源太郎殿を助けるよう頼み事をいたしたのか」吉乃が黙ってうなずくと、秀五郎はため息をついて言った。「それは、印南殿にとって、むごいことではあるまいか」「むごい?」吉乃ははっとして秀五郎の顔を見た。秀五郎は大きく顔を縦に振った。「そなたと印南殿の間に縁談話が起きたときのことをわしは覚えている。印南殿はまことに嬉しげ
であった。わしは、印南殿がそなたに懸想していたのを察しておったから、縁組はまことにめでたいことだ、と思っておった」「兄上は新六殿との縁談をご存じだったのでございますか」「知っておったとも、だからこそ、ひそかに喜んでいた。しかし、御前試合で印南殿が伊勢様を破
り、怪我をさせたことで縁談はつぶれた。そこでそなたと印南殿の縁は切れたのだ」「はい、さように存じます」「それなのに、源太郎殿を助けるよう、印南殿に頼むとは何事だ。印南殿の心の中にはいまもそなたへの想いが残っているやもしれぬ。そなたのしたことは、印南殿の想いを利用したことになるのだぞ」秀五郎は厳しい目で吉乃を見た。吉乃はあらためて自分が新六に甘えていた、と覚った。
考えてみれば、新六に頼み事をするなど、どうしてできたのかと思う。冷静に考えてみれば、新六は最も頼りにしてはならない相手だった。「兄上、わたくしは新六殿に申し訳のないことをいたしたようでございます」「そうだ。しかも、源太郎殿と印南殿は城中と小宮屋敷からそれぞれ脱け出せなくなったようだ。そなたは源太郎と印南殿のいずれが脱出して戻ってくることを願っているのだ」「わたくしは旦那様の妻でございますれば」「やはり、源太郎殿か。だが、そこで印南殿は見捨てられるのだ。これでも、むごいとは思わないのか」吉乃はうつむいて何も言えなかった。自分が新六にしたことは心無いことだったのかもしれない、という悔いが湧いていた。
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