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あらすじ
「天気晴朗なれども波高し」…今日でも多くの場面で引用される、簡潔で力強くそれでいて詩味を帯びたこの名文は、日本海海戦時の旧日本海軍名参謀、秋山真之提督により生み出された。その輝かしい人物像は歴史小説にもなり、多くの人を魅了。本書はノンフィクションではなく史実に基づき、自筆原稿も交えながら、日露戦争を動かした秋山真之という人物に深く迫る、まさに伝記決定版です。

 

ひと言
戦さの真っ最中でも秋山参謀は、一度も双眼鏡を手にしたことはなかった。「どうして双眼鏡を用いないのか?」と同僚が聞くと、「双眼鏡はハッキリ物を見ることはできるが、視界が狭くて一部分しか見えない。肉眼は局部的には物をハッキリ見ることができないが、対局は見える。俺は戦さの大局が見えればそれでいいのだ」と言った。(第二章 日本海大海戦)

 

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あらすじ
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」バルチック艦隊に完勝!奇跡の作戦を編み出し、日本軍を勝利へ導いた男の真実。

 

ひと言
司馬遼太郎さん原作のNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」。秋山真之役の本木雅弘さんがとてもカッコよくて図書館で見つけた2冊で今年の暮れの第3部の予習です。こちらの本のほうが写真や図解が豊富で丁字戦法もわかりやすく、兄・好古や子規のことも取り上げられていて先に読むのに適していると思います。それにしても12月の第3部が待ち遠しいです。
明治三十八年(一九〇五)五月二十七日。東郷平八郎率いる連合艦隊の主力は、朝鮮南岸の鎮海湾でバルチック艦隊の出現を今や遅しと待っていた。未明、霧の中に哨戒艦信濃丸は敵らしき灯火を発見した。……。飯田参謀が、大本営へ打電する電文案を秋山のところへ持ってきた。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす」とあった。秋山はこれに、「本日天気晴朗なれども波高し」と書き入れた。この一句には実に重大な意味が含まれていた。「天気晴朗」は視界が良くきいて敵を取り逃がさないことであり、「波高し」は、この海戦の勝因をあらわしていた。敵艦に大穴をあけた場合、高い波のために海水がどっと入って艦を沈める。また高い波は艦を揺るがせ、無防備の赤い艦腹を見せることがあり、そこへ砲弾が当たれば艦は沈む。旅順艦隊と戦った黄海海戦では、日本は敵艦を使い物にならないほど撃破したが、一隻も沈めることはできなかった。それは波が静かで、高波の海水が穴のあいた艦を襲わなかったからである。……。「本日天気晴朗なれども波高し」この変哲もない短い文句は、歴史に残る世界的名文句である。(第三章 真之をめぐる人々)

 

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あらすじ
地方には、光がある―物語が元気にする、町、人、恋。とある県庁に突如生まれた新部署“おもてなし課”。観光立県を目指すべく、若手職員の掛水は、振興企画の一環として、地元出身の人気作家に観光特使就任を打診するが…。「バカか、あんたらは」。いきなり浴びせかけられる言葉に掛水は思い悩む―いったい何がダメなんだ!?掛水とおもてなし課の、地方活性化にかける苦しくも輝かしい日々が始まった。

 

ひと言
高知県出身で観光特使の有川 浩さん。読み終えてすぐ 吾川スカイパーク 馬路村をググってみました。有川さんお得意の 馬路村のおやすみのシーン も上手く、楽しく読ませてもらいました。昨年の夏 高知に行ったばかりですが またすぐに行きたくなりました。本の帯にある「史上初、恋する観光小説」とは読者を「行ってみたいなぁ 行きたいなぁ」という気持ちにさせる小説のことなんだと分かりました。

 

 

便利になるということは手に入りやすくなるということで、それは同時にありがたみが薄れるということでもある。「お客の不便を顧みて、お客にもちょっと頑張ってもらうプライスレス?」何言ってんだ、俺。「わけ分かんないな」と照れ隠しに頭を掻くと、多紀は笑って頭を振った。「ちゃんと分かります」……。……。「おもてなしマインド」――たどり着いた、と思った。この言葉にたどり着くために今までのあがきはあったのだと思った。「自分の家に客呼んでさ、楽しんでもらおうと思っていろいろするやんか。部屋も掃除するし、トイレもキレイにするし、おいしいものも用意するやんか」――多紀を招くことになって慌てて家中を片付けた自分のように。けれど、慌てて片付けるようではまだまだ。日頃から片付けていればいつでも多紀に気持ちよく来てもらえる。
「観光地のトイレをキレイにしたり、名物の料理を用意したり、それと一緒なんや。ここの村は、観光客をもてなして楽しませるっていうことを全国的にもすごく高い水準で実現してると思うんやけど……これを県全体で実現できたら、それこそ県民一人一人がもてなす側の意識を持てたら、高知県はものすごくレベルの高いレジャーランドになれると思う」気がつくと多紀がしげしげと掛水を見つめていた。「な、何?」うろたえると、多紀がにこりと笑った。「掛水さん、今すごくカッコイイです」もっとうろたえて、喋れなくなった。
(5.あがけ、おもてなし課――ジタバタ。)

 

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あらすじ
お茶の水女子大学での藤原先生の「読書ゼミ」(座談会形式)をまとめたものです。毎週1冊文庫を買い、それを読破するのがゼミに入るための条件。戦前の日本なんて真っ暗闇、江戸、明治なんて遅れた封建社会だと教え込まれてきた女学生たちが、その時期を描いた名著(『武士道』『学問のすゝめ』『きけ わだつみのこえ』『逝きし世の面影』『武家の女性』『代表的日本人』『福翁自伝』『若き数学者のアメリカ』から『孤愁』他)の数々を読むことによって、自分たちの思いが単なる偏見ではないかと愕然としていきます。読書の楽しみ、知ることの喜びを実感させられます。藤原先生の最終講義付きです。

 

ひと言
『国家の品格』で市場原理主義を痛烈に批判された藤原正彦さん。今回も期待を裏切らない辛口な講義で、とても楽しく読ませてもらいました。本の最後の 父・新田次郎さんの未完の絶筆『孤愁―サウダーデ』を引き継いで執筆したいという言葉が印象的でした。
授業中こんな疑問が呈された。諭吉が激動の世で高杉晋作や坂本龍馬にも勝る洞察力を有しながら、実際の行動に一切出ず傍観者の姿勢を崩さぬまま人々を批判したり揶揄していたのは卑怯と言えないか。危機に立つ国家のためには一身を投じてこそ男ではないのか、という厳しい意見である。……。……。諭吉は幕末に三度洋行している。……。それまでの日本における洋学すなわち蘭学が医術、砲術、兵法、航海術、地理などに限定されていたことに諭吉は疑問を抱いていた。これら技術はなるほど必要不可欠だが、それを運用するための組織を研究しなければ、日本にこれらを根付かせ文明開化することはできない、とすでに悟っていたのである。だから初めから渡航目的を、選挙、議会、内閣、徴兵制、税制などの仕組み、また病院、銀行、保険、郵便、学校などの組織運営といったものの研究に的を絞っていたのである。……。……。こう考えると福沢諭吉は近代日本を描いた設計家、それに比べ木戸孝允、大久保利通、伊藤博文その他は諭吉の設計図に従い工事を施工した大工の棟梁のようにさえ見えてくる。諭吉は実際に行動を起こさない卑怯者どころではないのである。(福沢諭吉『福翁自伝』)

 

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あらすじ
40年前、現在の環境問題を予言し、警告する一冊の本が出版された。著者は海洋生物学者レイチェルカーソン女史。広範な知識と洞察力をもって、人間による自然破壊や環境汚染、化学薬品の乱用をいち早く指摘した。21世紀になっても古びることのない不朽の名著。待望の新装版。

 

ひと言
街の本屋さんではいつも目に付く所に積まれていて気になっていた本であるが、この本を図書館で目にして借りた。現代ではこのような環境問題を取り扱った本は巷に溢れているので大きな衝撃を受けることはなかったが、これが1962年(日本語訳1964年)ほぼ半世紀も前に出版されたということは大変な驚きであった。
私たちが危険な道を進んでいることは疑うまでもなく明らかだ……私たちはほかの防除方法を目指して研究にはげまなければならない。化学的コントロールではなく、生物学的コントロールこそ、とるべき道であろう。暴力をふるうのではなく、細心の注意をもって自然のいとなみを望ましい方向に導くことこそ、私たちの目的でなければならない……。
私たちは心をもっと高いところに向けるとともに、深い洞察力をもたなければならない。残念ながら、これをあわせもつ研究者は数少ない。生命とは、私たちの理解をこえる奇跡であり、それと格闘する羽目になっても、尊敬の念だけは失ってはならない。……生命をコントロールしようと殺虫剤のような武器に訴えるのは、まだ自然をよく知らないためだと言いたい。自然の力をうまく利用すれば、暴力などふるうまでもない。必要なのは謙虚な心であり、科学者のうぬぼれの入る余地などは、ここにはないと言ってよい。(十六 迫り来る雪崩)

 

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あらすじ
日露戦争から第二次世界大戦まで、日本人にとって戦争とは何なのか?──ベストセラー『昭和史』『幕末史』と並ぶ、著者渾身の書。
幕末史と日本人  日露戦争と日本人  日露戦争後と日本人  統帥権と日本人  
八紘一宇と日本人  鬼畜米英と日本人  戦艦大和と日本人  特攻隊と日本人
原子爆弾と日本人  八月十五日と日本人  昭和天皇と日本人

 

ひと言
図書館へ本を返しに行ったとき、前の人が返却したこの本を目にし、書架に並べられるやいなや手に取った本である。半藤さんは「歴史探偵」と自称されるが、常識や既成の概念を簡単に鵜呑みにせず丹念に関係者や史実資料にあたり、しかも厳しく吟味してわかりやすい言葉で語りかけてくれるほんとうの名探偵である。もう80歳を過ぎた半藤さんであるが、お体をお大切にして 我々戦争を知らないものたちのために これからも深く感銘を受ける作品をお願いしたいと思う。

 

 

大西さん(第一航空艦隊司令長官 大西瀧治郎)は特攻についてどう考えていたのか。零戦研究の第一人者 神立尚紀さんが最近出した戦記『祖父たちの零戦』(講談社)に、まことに興味津々たることが記されています。…。
「これ(特攻)は九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。だが、ここに信じていいことが二つある。天皇陛下はこのことを聞かれたならば、戦争はやめろ、と必ず仰せられるであろうこと。もうひとつは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らのお心で戦を止めさせられたという歴史が残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。(中略)大西は、後世史家のいかなる批判を浴びようとも、鬼となって前線に戦う。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、大西は上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽りつづけた罪を謝し、特攻隊員のあとを追うであろう」初めて知る大西中将の真意です。真偽のほどはわからないが、戦争をやめるために特攻に踏みきったとは。わたくしにとって驚天動地の話であったことは隠さずに述べておきます。……。……。
そして、事実、特攻隊が突入して大戦果を上げ、報告に来た及川軍令部総長に天皇がこう言ったというんです。「そこまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」
「よくやった」―― これが全軍に伝わるわけです。天皇は「戦争をやめろ」とは言えなかったんですねぇ。(第八章 特攻隊と日本人)

 

 

宇垣纏中将の『戦藻録』にこうあります。「沖縄特攻の主因は、軍令部総長(及川大将)奏上の際、『航空部隊だけの総攻撃なるや』のご下問に対し、『海軍の全兵力を使用いたす』と奉答せるにあり」と。天皇のあるいは軽い質問であったかもしれませんが、軍令部総長が「出撃させます」と答えてしまったわけです。大和の運命はここに決まったんです。大和を中心とする第二艦隊の司令長官は伊藤整一中将です。連合艦隊参謀長 草鹿龍之介中将が、三上作夫参謀をともなって、徳山沖に在伯していた大和に赴いたのは昭和二十年四月六日のこと。そのときのことを三上参謀が回想して記しています。「作戦計画について説明しても、伊藤長官はなかなか納得されなかった。当然、このような作戦などといえない無謀無策な挙を納得されるはずがなかった。最後に、一億総特攻のさきがけになってもらいたいのだという説明で、そうか、それならわかった、と即座に納得された」……。それでも伊藤中将は草鹿さんに、「いよいよ大和が行動不能になったときの判断は私に任せてもらうがいいか」と言い、草鹿さんはやむなくOKを出した。あとになってこの一言が、多くの命を救うことになります。……。
大和艦上の伊藤長官は、もはやこれまでと思ったとき、作戦中止命令を出しました。これは、生き残った駆逐艦は内地に帰投せよという長官命令です。そのとき残った駆逐艦は四隻。その名を残しておきましょうか、雪風、初霜、冬月、涼月の四隻です。いい名前ですね。これらはこの作戦中止命令を受けると同時に、海上に浮いている生存者の救助にかかって、「大和」の生き残りも、ほかの艦の生き残りも全部、救いました。……。大和乗組員、三千三百三十二名のうち戦死は三千五十六名。他の艦も合計して四千三十七名が戦死しました。これは、飛行機の特攻隊の陸海合計の死者数四千六百十五人に近いのです。それも、たった一日で。なんとも言えませんね。ただし大和の突撃は特攻とは正式に認められていないらしく、戦死者は二階級特進の栄誉にはあずかっておりません。……虚しいですね。(第七章 戦艦大和と日本人)

 

 

評論家茶本繁正さんの『戦争とジャーナリズム』(三一書房)には興味深い一節があります。ちょっと長く引用させてもらいます。「ロシア討つべしの世論は、涙香(非戦論を主張する万朝報のトップ黒岩涙香)を動揺させた。社内の古手記者のなかには、戦争に反対すれば、新聞はつぶされると心配する者もいた。そうでなくとも『万朝報』の非戦論は、時流に逆行する抵抗である。(中略)明治のそのころ、一〇万部という空前の大台にのっていた『万朝報』は、主戦の大勢に抗しているうち、その大台を割って、八万台に落ちていた。経営か志か――経営者にとって重大な決断を迫られたのが、日露開戦論であったはずである。涙香はその決断を、経営にとったのである」これを読んだとき、わたくしは満州事変のさいの大阪朝日新聞のことがぴったりと重なるようにして想起されました。事変が起こった九月十八日から即座に、東京朝日は陸軍擁護の太鼓をたたきだしたのに、大阪朝日はそれとは別に「中国民族主義の積極的肯定」という理念をかかげ、軍部批判の筆鋒をゆるめようとはしませんでした。その結果、何が起こったかといえば、在郷軍人会や主戦強硬派による非買運動であったのです。奈良県下では一部も売れなくなったといわれています。十月十二日、大阪朝日は編集局部長会をひらき、つづいて役員会をひらいて、ついに悲痛な決断を下しました。(新聞と日本人――長い「あとがき」として)

 

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あらすじ
7年間かけて3億キロの彼方にある小惑星イトカワまで、星のサンプル採取に旅立った惑星探査機はやぶさ。2003年5月の打ち上げから、2010年6月の感動の地球帰還までの、その道中では、幾多のトラブルが発生し、スタッフからも「もうダメか」と落胆、悲鳴が何度も繰り返された。その試練を乗り越えて、やっと、やっと地球に帰還。その全プロセスにおいて、プロジェクトチームに綿密な取材を続けてきた著者が、他では知り得ない情報をふんだんに盛り込んだ。「はやぶさ」ファンも知らない未公開の事実、わくわくする証言が続々と公開される。

 

ひと言
読了後とても爽快な気分になり、この本との「一期一会」の出会いに感謝しました。「地球スウィングバイ」を誤差1キロ以内で成功させたときの的川泰宣さん(はやぶさを打ち上げた内之浦宇宙センターの所長)の言葉(77ページ)。中和器の故障でイオンエンジンが完全に止まり地球帰還がきわめて難しくなったときの國中均さん(15年間かけてはやぶさのマイクロ波放電式イオンエンジンμ-10 を研究開発)が行った起死回生のスラスターBと中和器Aのクロス運転の成功(234ページ)。その3日後、川口淳一郎さん(小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトの「プロジェクトマネージャー」つまり総監督)が羽田から米子空港に飛び、大山の南東山麓にある「中和神社」(ちゅうか じんじゃ)に、まさに「人事を尽くして天命を待つ」心境で祈願に向かったこと(239ページ)ほかにも感動的な内容がいくつもあり、ぜひ中高生に読んで欲しいと思いました。はやぶさは確率的には奇跡に近い生還なのかもしれないけれど、やっぱり國中均さんの言葉の通り、はやぶさに携わった科学者の努力と熱意があったから生還したんだと思います。「はやぶさ」ほんとうに感動をありがとう。

 

 

そして明日、ここに「はやぶさ」が帰ってくる。この日を迎えることができたのは、奇跡なのか、偶然なのか、努力のおかげなのか。チームの一人は「奇跡だ」ともらしていたが、國中さんは?
「うーん、奇跡だとはいいたくないですよね。やっぱり努力でしょうね、努力です。とても『おもしろかった』ので、みんな一生懸命努力したんです」
いい言葉だ。「おもしろい」という思いはとてもだいじ。「おもしろい」とは好奇心をかきたてられることであり、それが文化や文明の最大の原動力になってきた。宇宙分野にかぎらず、日本の最先端の科学技術者たちも、モノづくりにたずさわる人たちも、「おもしろい」からこそ努力をして世界一の成果を手にしてきたのだ。……「はやぶさ」の地球帰還前日に、私たちが忘れかけていた大事な言葉を國中さんからもらうことができた。このひと言だけでも、私ははるばるウーメラまでやってきたかいがあった。だれもが「おもしろい」と感じてきたからこそ、「はやぶさ」は世界初、世界一を実現できたのだから。(10章 大星空から「さようなら」)

 

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あらすじ
新たな門出を祝う34歳の離婚式。友人の風変りな離婚パーティで顔を合わせた5人の男と女。動揺、苛立ち、虚しさ、自分を取り戻そうとするのだが、揺れるこころが波紋をなげる。それぞれが見つける新たな出発を描いた長編小説。

 

ひと言
久しぶりの角田 光代さん。八日目の蝉ほどではないけれどやっぱりうまいし読みやすいです。角田さんの本は人気で なかなか図書館で借りられないけどもっといろいろと読みたい作家さんです。
そういえばさあ。フローリングの床に寝転がって、おもしろそうに宇田男は言った。ついこないだのテレビで、お笑いの人が絶対に断られない愛の告白っていうのを教えてたよ。勝手に好きでいてもいいですか、って言うんだって。それなら言われたほうは断ることができないじゃん?イエスノーの答えを求められているわけではないからさ。なるほどねえ、って思ったよ。どうぞご自由に、って言うしかないもんね。充留は指の先まで赤くなっていくような気がした。この人はぜんぶ知っているんだ、と思った。私は宇田男に負担をかけない言葉をさがしたのではない、断られることのない、自分が傷つけられることのない言葉をさがしたのだ、宇田男が言うように。(二月の決断)
「コステロ、いったよなあ」正道は天井を見上げ、なつかしそうに言う。正面に座る裕美子から見れば、やっぱり心底なつかしがっているふうに見える。「なんだかんだいって、おれ、あんたといっしょにいてすごく楽しかった」喉の奥で待機していた罵りの言葉が、すべてさらさらと蒸発してしまう。裕美子は唇を噛んでワインボトルを引き寄せ、自分のグラスになみなみと注ぐ。私とは違い、正道は私を傷つける方法を的確に知っている、と思う。おそろしいことに、実の母親より、長年の女友達より、この男は私を正確に傷つけることができる。十五年かかって習得したことが、相手の傷つけかただなんて、皮肉というよりなんだか不思議な気がする。「そうだね」降参の白旗をあげるような気分で裕美子は言い、味付け海苔をぱりぱりと噛んだ。(四月のパーティ)

 

7月25日~29日 家族4人で沖縄旅行にいきました。

1日目 中部空港を15:10発の飛行機で那覇空港へ。モノレールで県庁前近くのホテルから ぶらぶら歩いて国際通りのあんがまというお店で島唄ライブを聞きながら沖縄料理。

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2日目レンタカーで旧海軍司令部壕へ 太田 実 少将(中将)
 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
 
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車がすれ違うことができないような細いウージ(サトウキビ)畑を通り、道を歩いていたおばあさんに道を尋ねながら、沖縄戦で米軍に追いつめられ、自決するために身を投げたという悲しい歴史が残る喜屋武(きゃん)岬へ。

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サイパンのバンザイクリフは少しでも日本に近い最北端なのに、ここ喜屋武岬は…。 米軍に南に追い詰められて しかたがなかったとはいえ本土からより遠い沖縄本島最南端のこの海に身を投げた1万人もの人々はさぞかし無念であったに違いない。沖縄を訪れたもっと多くの人が 手を合わせにくることができるように標識や道幅の整備をしてほしいと思った。

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ひめゆりの塔の献花台にお花をお供えして、ひめゆり平和祈念資料館へ。中庭のお花畑の美しさが心にしみる。

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沖縄戦終結50周年を記念して建てられた平和の礎(いしじ)。国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々24万931人うち米軍戦没者1万4009人(2011年6月現在)の氏名が刻まれている。沖縄県民は誰一人として戦中の敵米軍戦没者の刻銘に反対の声はなかったということだ。

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米軍の本土上陸を少しでも遅らせようとして、必死に抵抗し、命を落とした沖縄の人々に、唯々ほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
もっと早く手を合わせに来なければならなかった沖縄にやっと来ることができました。ありがとうございました。安らかにお眠りください。合掌

3日目 恩納村のカフーリゾート フチャク コンド・ホテルから近くの港まで行き、船に乗って青の洞窟へ行きシュノーケルを体験。天気がよく朝の太陽が洞窟に差し込みほんとうにきれいな青色に見えました。

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一度港に戻って次は別の場所でスキューバーダイビングリング。耳抜きにもすぐに慣れ、下の娘は手を伸ばせば触れるほどの至近距離でイソギンチャクの中にいるカクレクマノミも見ることができて大満足でした。

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ホテルに戻って一休みして、万座毛や真栄田岬へ。万座毛の方からから見るANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾートホテルはとても素敵でした。

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4日目 今日は連泊のカフーを後に 美ら海水族館へ。高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cmのアクリルパネルの「黒潮の海」は圧巻でした。オキちゃん劇場のイルカショーも観て、園内を走る電気遊覧車でエメラルドビーチへ。

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4時過ぎまでビーチで遊び、6時半過ぎに首里城に到着。ほとんど他の観光客がいなくて貸切状態でゆっくり見て回ることができました。

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5日目 朝ホテルから空港南側の瀬長島に向かい飛行機が発着するのを見て、那覇空港を12:20発の飛行機で帰りました。

5日間とも天気に恵まれた沖縄家族旅行でした。
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あらすじ
ジーンズにTシャツのラフな姿で知られる数学者が、個人と社会ののびやかな関わり方を軽妙なタッチで説く自伝。

 

ひと言
森毅さんが82歳でお亡くなりになって、7月24日でちょうど一年になります。大学時代にゼミでお世話になった先生のお名前も出てきて、お元気だったころの森先生の笑顔や大学生だったころのことを思い出しながら読ませてもらいました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

ずいぶん勉強したようだが、今の勉強と違うのは、その勉強を役にたてるあてがまったくないこと。間もなく戦争で命をなくすだろう。小食のぼくが、そのころなんでも食いたがったのに似ている。いま食っておかぬと食えないぞ。いま読んでおかぬと読めないぞ。それは、老年の現在の勉強と共通している。勉強に目的なんかいらない。
(3章 戦争末期の高校生)