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あらすじ
一人息子を残して病に斃れた「自慢の妻」を偲びつつ、戦いの渦中に身を置かなければならなかった連合艦隊トップリーダーの、知られざる家族愛と人間像を活写した異色作。終戦の日、死所を求めて特攻出撃した提督の真実。

 

ひと言
8月15日の玉音放送後に最後の特攻をかけた司令長官が宇垣 纏だということは知っていた。
他の人にはどちらでもいいことなのかもしれないが、私はその特攻が敵艦に突入しに行ったのか、海に突っ込んで自爆しようとした出撃なのか もっと知りたくてこの本を読もうと思った。
操縦していた中津留大尉の判断なのか、宇垣中将の命令なのか わからないが敵艦に突入したようではないようだ。それならどうして5機(11機)も飛び立ったのだろう。
わたしたちにはその是非について論じる資格などない。70年以上も前に この国のことを想って命をかけた人々がいたことを絶対に忘れないようにしなければならないと思った。

 

 

この国の行く果ては気がかりではあるけれど、もはや一人の軍人に、その役目は見当たらないだろう。ならば帝国の再建のため、後ろ楯になるような大和魂を、最後に示して終わりたかった。それが俺に残された仕事だろう。何か違っているだろうか。ともすれば、死の理由を無理に結論づけているのかもしれない。だが、先に出撃した大勢の特攻隊員の命の引き換えが、ただの無条件降伏ではあまりに哀れである。せめて彼らにならって最期を遂げて御霊に報いたい。でなければ神州の不滅を信じ、飛び立った彼らがあまりに惨めで悲しい。何の償いにもならないが、他に詫びを言う方法はない。宇垣はじっと眼を閉じ、やがてもう一度上を見上げ、健全な太陽の匂いを嗅いだ。(第十章 八月十五日の決死行(四))

 

 

そこに幾つものアメリカ艦艇を確認しながら、相手がもう敵ではないことを、宇垣がどうやって同乗の若者に了解させたのかは分からない。機内には隊長の中津留と予科練出の下士官がいた。あるいは二人も宇垣と同様、最後、認めた灯火にこの日、国が負けたことを悟ったのかもしれない。「長官、あの島の岸辺に突入します」操縦の中津留が目標地点を定め、宇垣の判断を仰いだ。水深一千メートル、黒潮巻く海面がどんより暮れ残っている。中津留が機をぐっと降下させた。「長官、ワレ突入スを発信します」宇垣は偵察員の声を聞いた。海中に爆弾を投棄した彗星は、それから真っ直ぐ島の浜辺に急降下した。やがて海面がぱっと、真っ赤な炎で染まった。時刻は二十時二十五分、火炎と共に長い戦いの幕が下り、帝国海軍が落日を迎えた。だが大分市内の五航艦では、「我奇襲に成功」を発信した長官機がまさか、海岸に自爆したとは思いもよらない。また戦後、米軍側の非公式記録は、宇垣長官機は米空母に突入、僅かな損害が出たのみと伝えたのである。昭和五十二年になってようやく、戦史研究家の手で、別の証言が明るみに出た。長官機からの突入電に符合する時刻、沖縄本島の北西、伊平屋島に突入自爆した彗星が一機あったこと、本来二人乗りのはずの機の燃え尽きた跡に、三名の遺体が確認されたこと。うち二人は飛行服を身につけていたのに一人、ダークグリーンの三種軍装の者がいたこと。そしてこの遺体の脇に、血だらけの短剣が落ちていたこと。それがきっと、宇垣が機上に携えていった山本五十六の形見の脇差しであろうという推測。寂しい話だが宇垣と中津留と、それに遠藤という若い飛曹長の遺体は、現地の米軍がロープで足を巻き、ジープに括りつけて引いて行ったという。火葬場で荼毘に付され、島内の合同慰霊塔に埋葬されたという話も残っており、あくまでも目撃者の伝聞とはいえ、おおむね本当の話らしい。戦後ただし、三十数年を経て判明した事実を再度、公刊資料に追記できるものではない。それに、彼らが宇垣たち三名だという確証はないのである。(第十章 八月十五日の決死行(五))

 

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あらすじ
『本の雑誌』が選ぶ 2014年ベスト10(ノンジャンル)の第1位 獲得! !
終戦から10年、主人公・左織は22歳の時、銀座で女に声をかけられる。風美子と名乗る女は、左織と疎開先が一緒だったという。風美子は、あの時皆でいじめた女の子?「仕返し」のために現れたのか。欲しいものは何でも手に入れるという風美子はやがて左織の「家族」となり、その存在が左織の日常をおびやかし始める。うしろめたい記憶に縛られたまま手に入れた「幸福な人生」の結末は。 激動の戦後を生き抜いた女たちの〈人生の真実〉に迫る角田文学の最新長編。あの時代を生きたすべての日本人に贈る感動大作!

 

ひと言
仕事環境が変わったせいもあり、最近はまったく本が読めなかったり、読み始めても気がのらなくて途中でやめてしまったりと、実に2か月ぶりの読書のブログです。
こういうときはやっぱり私の好きな角田さんを読もうと図書館に予約を入れました。
「八日目の蝉」や「紙の月」のように事件に絡めた女の心を描くというような派手さはなく、あの時代を生き抜いたある意味平凡な女の人を描いた作品だけに、筆力がものをいう作品ですが、今さらながら角田さんの筆力に改めて感心する作品でした。始めは淡々と話が進んでいきますが、ラスト80ページぐらいからはさすが、最後の43は読み直したくらいです。やっぱり角田さんはいいね♪

 

 

「私はあなたのそういうところがぜんぜん理解できない。冗談じゃない。私はあなたとは遠うのよ。どんなことでも栄養にして、どんどん大きくなっていけるあなたとは違うの。私を巻きこまないでちょうだい。これ以上私を巻きこまないで」「これ以上って何」風美子が眉間にしわを寄せて訊く。「私が今まで何にあなたを巻きこんだっての」左識は口をぱくぱくさせる。ああ、私は「巻きこまれた」と思っているんだな、と気づく。いつか百々子に罵られたとおり、ぜんぶこの人のせいだと思っているんだ。実家と疎遠になったのも。夫の気持ちが自分にないのではないかと疑っていたことも。百々子が私を許さないのも。柊平が男色家になったのも。みんな、みんなこの家から出ていったことも。温彦が先に死こだことですら。「べつにいいよ、その話は断ったって。でも巻きこまれているというのはおかしいんじゃないの。そう思うのなら巻きこまれないようにすればいいじゃん。勝手に巻きこまれて、こっちに文句言わないでよ。それにね、さーちゃんが忌み嫌ってるあの時代だって、私たちが恥じる必要なんかない。私たちは子どもで、なんにもできなかった。巻きこまれるしかなかった。でも今は子どもじゃない。巻きこまれないように生きることができる」
………。……。
そうか、と左識ははじめて納得する。みんなが離れていくのも、人生が思い通り進まないのも、この人のせいなんかじゃなかった。何か決めるたび、何か選ぶたび、何かしなくてはいけないたび、変えなくてはいけないたび、私はあの、本来の私とは隔たった幼い子どもに押しつけてきたのだ。思考を停止し、何も決めず何も変えず、じっとただ眺めていることを、あの子にさせてきたのだな。今の私の人生を作っているのは、あの、貧しくて弱い女の子だ。(43)

 

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下の娘がナン(カレー)が食べたいというので、今年の3月に2号店がオープンした「DEVI 大治店」へ行ってきました。
日替わりスープ、野菜のドレッシングもなかなか味わえない味付けでおいしく、ナンもプレーン、ガーリック、ハニーの3種を頼みましたが、モチモチでふわっとした大きめのナンは口の中で甘さが拡がりとてもおいしかったです♪。カレーはバターチキンとキーマカレー。本場で普通でも辛いかもしれないので2普通にしましたが次は3中辛を味わってみたいです。
お店の方の「ナマステ」の挨拶もとても気持ちよく、また行きたいお店でした。

 

DEVI 大治店( 食べログ )
愛知県海部郡大治町西條

 

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食べログ 3.72(2015.05.20現在)の十割そば。前から是非行きたいと思っていた「七里庵」に行ってきました。
店の入口に「北海道 音威子府(おといねっぷ)産」の張り紙があり評判の音威子府・幌内産が食べられるとあって気分も高まります♪しばらく待つと 十割ざるそば(800円)にざる1枚追加(700円)を一緒に乗せたそばが運ばれてきました♪ まずは何もつけずに2,3本そばを味わいます。確かにうまい!
でも風味が少し落ちて、十割の鼻や口に広がる甘い香りがあまり感じられません。3.7以上の高得点の十割そばでこちらの期待が大きすぎたのかもしれません。今度はそばの旬の10月下旬から11月にもう一度食べにきたいと思いました。

 

七里庵( 食べログ 愛知 )
名古屋市西区枇杷島3

 

普段 下宿している大学2年生の娘が、サプライズで 母親に手料理をごちそうしようと帰ってきました。

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パスタ屋さんでバイトしているので、そのお店の「明太子と照り焼きベーコン」に似せたパスタと かぼちゃのパイ包みスープ、生春巻き。デザートにミルフィーユを作ってくれました。
どれもおいしくて久しぶりに家族4人での食事を楽しみました。 ありがとう♪
5月3日 弟家族と一緒に天橋立、舞鶴の西国三十三所に行ってきました。

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朝5時に大阪の堺を出て、吉川JCTから舞鶴若狭道、綾部JCTから京都縦貫自動車道を通って行きました。

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ゴールデンウイークで渋滞するので朝早く出たおかげで ちょうど8時には28番 成相寺に着きました♪。

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お参りを済ませ車で5分ほどの山頂から天橋立を眺めます。

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智恩寺の駐車場に車を停めて松原を散策しようと思ったのが大間違い。
さすがにゴールデンウイークでもうこの時間には駐車場は満車 道は大渋滞で引き返すこともできず、京都丹後鉄道の次の宮津駅に車を停めて電車(6分 210円)で天橋立駅に向かいます。
長く続く渋滞の車列の横を電車は快適に走ります。
やっぱり観光地のパークアンドライドは基本なのかもしれません。

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日本三文殊(山形県 大聖寺、奈良県 安倍文殊院)の智恩寺で扇形のおみくじを引きます。
写真は姪です。

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全長 3.6kmの松林を歩き 帰りはモーターボートで戻ります。

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次の札所へ行く途中 舞鶴の赤レンガパークに立ち寄ります。
海上自衛隊の護衛艦は近くで見ると大迫力です。

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レトロな赤レンガ造りの2号棟にある赤煉瓦cafe jazz で海軍カレー(730円)をいただきます。

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29番松尾寺にもお参りし、なかなか行きにくかった丹後の札所も巡ることができました。

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夕飯はのどぐろ(500円 安い!)を食べさせてくれる回転寿司屋さんです。この魚 どうしてこんなにうまいんだろう。

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堺の実家に泊まり、次の日は一人で 難所と言われる4番 施福寺(ここは地元で子どものころから槇尾さん♪です)をお参りします。

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駐車場から山門までの坂が登りにくくてきつく感じますが、山門からは石段なので比較的に登りやすいです。すれ違う参拝者の方と「こんにちは」とあいさつをして元気をもらいながら30分ほどで登ることができました。

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本尊御開帳の時期に合わせてお参りしたので、本尊の弥勒菩薩はもとより50~60年に1回の馬頭観音も拝観(これは知らずに行きました)することができました♪。
5番 葛井寺も18日にお参りして国宝の十一面千手千眼観音を拝観したいです!
4月4、5日 義父の喜寿(77歳)のお祝いで 12名で伊勢へ1泊旅行に行きました。

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東名阪の御在所SAで集合して、先ずは今シーズン最後の浦村かきを食べに「浜英水産」へ向かいます。

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とても大ぶりのおいしい牡蠣で、焼き 蒸しかきは食べ放題、グラタン フライ 天ぷら かきご飯 など1人 2800円はとてもお値打ちで大満足です♪。是非 今度は生かきを食べに来たいです。

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パールロードの鳥羽展望台に立ち寄り 次は女性の願いをひとつ叶えてくれるという 相差(おうさつ)の神明神社 石上さんです。

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年間20万人が訪れる人気のパワースポットなのに 一番近い海女文化資料館の駐車場は今でも無料。
地元の方や警察官の方までもが出てにこやかに交通整理や駐車場整理をされていて、みんなで石上さんを盛り立て 大切に守っていこう 遠くから訪れる観光客におもてなしの心で対応していただいてすごく気持ちのいい観光地です。

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今日の宿は鳥羽グランドホテル。部屋で喜寿のお祝いのケーキを食べたりビンゴゲームをして楽しみました♪。夕食の活きあわびの踊り焼きがやわらかくておいしかったです。

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朝食後にまた露天風呂に入ったりしてチェックアウトぎりぎりまでゆっくりと過ごし 内宮に参拝しておはらい町をぶらぶら、遅いお昼はおかげ横丁のふくすけで月見伊勢うどん(560円)をいただきました。

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お土産にへんば餅(1個 80円)を買って帰ります。とても楽しい伊勢旅行でした。

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この週末 親父の墓参りに大阪に帰り、日曜日はあべのハルカスで下の娘の買い物をして「やまちゃん 本店」に立ち寄りました。雨が降っていたので5、6人が並んでいるだけですんなりと買うことができました♪。
ここのたこ焼きは鶏ガラベースのスープに 昆布・かつおの和風だしをブレンドした生地が自慢のたこ焼きなので、ベスト(なにもつけずにそのまま)が「やまちゃん」の味の良さがよくわかるのですが、子どもの希望の ヤング ヤングB(ソース しょうゆとマヨネーズ)(どちらも8個 400円)をいただきます。

 

外はカリっと 中はとろ〜り やっぱりここのたこ焼きはいつ食べてもどれを食べてもうまいわ~♪。
大阪一(日本一)のたこ焼きです。USJの駅からゲートまでの途中の「たこやきミュージアム」にもお店があるので「やまちゃん」のたこ焼きを食べたことがない人は是非どうぞ

 

 

あべのたこやき やまちゃん
大阪市阿倍野区阿倍野筋1

 

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あらすじ
3.11の大津波で、全校生徒108人のうち、実に74人の死亡・行方不明者を生む大惨事の舞台となった宮城県石巻市立大川小学校。これまで、ひた隠しにされてきた「空白の51分」の悲劇が明らかになった。なぜ、「山さ逃げるべ」という児童の懇願も受け入れず避難が遅れたのか?なぜ、石巻市教育委員会は児童の聞き取り調査メモを廃棄したのか?なぜ、真相解明を求める遺族の声は聞き入れられないのか?膨大な資料開示請求から得た新事実と、行政・遺族双方への緻密な取材によって再検証する、渾身のノンフィクション!

 

ひと言
4年目の3.11。津波により児童ら84人が犠牲になった大川小学校の校舎を震災遺構として残すかどうかについての住民の集会が開かれ、過半数の人がすべてを残すと回答したことが取り上げられていました。
震災に遭われた方がいつも口にされる「忘れないで欲しい」という言葉。
2011年11月 同じ池上正樹さんが書いた「ふたたび、ここから 東日本大震災・石巻の人たちの50日間」という石巻市立門脇小学校のことを書いた本を読みました。今回の、石巻市立大川小学校の悲劇を描いたこの本を読むのは すごくつらく、すぐそばに人がいるにもかかわらず、涙があふれてとまりませんでした。私たちは大川小学校のことを絶対に忘れてはいけないと、震災4年目この本を読んで誓いを新たにしました。
ご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

みずほちゃんの思い出がたくさん詰まった部屋で、ちよゑさんは涙声を振り絞る。英語の通訳になりたかったみずほちゃんは、本当ならいまは中学2年生。壁には、まだ袖を通したことのない中学のジャージが掛かっている。胸には、「佐藤みずほ」の刺繍がしてある。「これは作ってあったんだっちゃね。中学行くのえらい楽しみにしてて。あの日に、帰ってきたら制服を受け取りに行くことにしてたの。『今日帰ってきたら行こうね』 って言ってたの」その中学校の制服も、学校の近所の服屋に注文していたために、津波で流されてしまった。泣きながら話すちよゑさんの言葉に、力がこもる。「未来が断たれた。悔しい。地域の子どもたちがみんないないんだもの。本当に、なんで死ななぎゃいげねんだ」 ……。……。
仲良しの3人は、2011年4月1日に、農協のツアーでディズニーランドに行くのを楽しみにしていた。前出の佐藤和隆さんの息子雄樹君や、大川小の他の児童たちも、何人もこのツアーに申し込んでいた。かつらさんは、みずほちゃんがとても楽しみにしていた様子をこう話す。「みずほはさ、何か欲しいから買い物に連れていって、って要求したことは1回もないのね。ところが、ディズニーランドに行くと決まって、“おかあさん、3月19日、20目、21日の3連休に、どっか暇なあい?”って言われて。“えー、なんで?”っていったら、“ちーちゃんと愛ちゃんと3人で、ディズニーランドに着ていく服を買いに行きたいんだ”って。初めてそんなこと言ったな、と思って、“いいよ、いいよ、時間は取れるから。じゃあ、愛ちゃんとちーちゃんのお母さんも一緒に行くことになるのかな?”って言うと、“うん、そうなるかもしれない”って。“そしたら、お母さんたち3人は、美味しいもの食べにいくから、いいよ”って言っていたんだよね。そのとき初めて、お洋服買いに行きたいって、自分で言ったのさ」さよみさんも、震災の前の日曜日に出かけたイオンで、「ディズニーランドの服買わなくてもいいの?」と千聖ちゃんに言ったら、「みんなで買いに来るからいい」と断ってきたという。3人で揃えてコーディネートをすると、みんなでしっかり決めていたのだった。
(14 子どもの死の意味を問い続ける遺族たち「命の言葉」)

 

 

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「先生がいないほうが、助かった」
遺族は、そう口々に言う。教師たちにとって、なんと厳しい言葉だろう。
とはいえ、遺族も、大川小の先生たちがあの51分間に、子どもたちを守ろうと必死に奔走していたことは間違いないと、信じている。だが、遺族は同時に、子どもたちが自分勝手に行動する(逃げる)ことが許されていなかったのだとも言う。先生の言うことをきちんと聞いていた結果が、命を失う結果につながってしまったことも、事実なのである。
(エピローグ「子どもたちに、ひと目会いたかった」)

 

 

まだ行方のわからない大川小の4人の子どもたちが、お父さん、お母さんの元に一日でも早く戻ってくることを心から願いつつ、84入の子どもたちと先生たちの犠牲が、転じて、世界中の多くの命を教う教訓になることを願ってやみません。
(エピローグ「子どもたちに、ひと目会いたかった」)

 

 

                

 

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あらすじ
この度の大震災は、多くの日本人に自らを見つめ直す契機をもたらしたと思う。危機が、さまざまな立場の日本人の“地金”を炙り出した。私たちは高位高官の情けない言動を見せられた。と同時に、多くの無名の日本人の見事な振る舞いを知った。この震災で日本は物質的には多くの物を失い、「日本には何でもある」という状況ではなくなった。しかし、間違いなく「希望」はあるのだ。崖っぷちに立たされていても、そこから押し返していける力が日本にはあると私は信じている。
台湾で日本人として生まれ、齢七十を超えて改めて日本人となった私――それをいかに受け止め、生きていくか。私は、凛として生きたいと思っている。

 

ひと言
女性に対して使われる「凛として」、男性に対して使われる「凛々しい」(凛 …… 態度・容姿・声などが、きびしくひきしまっているさま)とても素敵な日本語だと思います。
1961年生まれで、60年代 70年代の素敵な時代を、日本人として過ごすことができて……。世界で一番恵まれた時代を生きることができたことに感謝しています。
今こそ、1961年1月20日 ジョン・F・ケネディの大統領就任演説での名言「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」を実践するときなのかもしれません。この国を傷つけた大震災は、国を想い、国を守るという日本人ならば自明の姿勢を呼び醒ましてくれたのです。
がんばろう日本人。

 

 

 

使命を遂行した見事な日本人たち
彼らの“決死”の作業を振り返っておこう。ハイパーレスキュー隊の第一陣が最初に福島第一原発の構内に足を踏み入れたのは三月十八日午後五時頃、当初の東京電力側からの情報では、水を汲み上げる海側までは車で近づけるはずだったのが、構内は瓦礫で埋まっており、瓦礫を避けて海から放水車までホースを延ばすには、被曝の危険が増す車外での手作業しかなかった。……。東京消防庁の佐藤康雄警防部長によると、「危険度を熟知する隊員の恐怖心は計り知れないが、拒否する者はいなかった」という。ただ、防護服の着用に普段の3倍以上の時間がかかるなど、緊張の色を隠せなかった。約20人が車外に出ての作業。車外作業者には、放射線量を測る隊員から危険度を知らせる声がかかった。「常にそばでバックアップしてくれる仲間がいたからこそ達成できた」と高山隊長。作業は約15分で完了し、屈折放水塔車は白煙を上げる3号機に向け19日午前O時半、放水を開始。20分で約60トンを放水した。この第一陣が三月十九日夜に都庁で会見を行った。冨岡豊彦総括隊長(47)は、任務に出る前、「必ず帰ってくるから安心しろ」と妻にメールを送った。妻からは「信じて待ってます」と短い返信があった。佐藤部長は妻に福島行きを伝えると、「日本の救世主になってください」と一言書かれたメールが送られてきたという。また冨岡隊長は、作戦に従事した隊員について「家族には本当に申し訳ない。おわびを申し上げたい」と涙ぐみ、高山隊長は「家に帰ったら家族と酒を飲みながら反省会をしたい」と笑い、佐藤部長は「恐怖心を克服し任務に当たってくれたことに敬服の念を抱いている」と隊員らをねぎらった。原子炉への注水はその後も陸上自衛隊や東電の職員などによって続けられたが、同様の恐怖と闘い、緊張感に耐えての作業だったに違いない。同原発では、三月十四目に三号機で海水の注入作業中に水素爆発が起きた。この事故で東電の社員ら七人と、自衛隊員四人の計一一人が負傷したが、ジャーナリストの桜林美佐氏によれば、その中に陸自の中央特殊武器防護隊長もいたという。事故に遭った隊員は通常後送されるが、隊長は「ここで任務を放棄するわけにはいかない」と後送されることを強く拒んだという。こうした使命感には本当に頭が下がる。彼らはみな見事な日本人であると思う。

 

 

 

体を張っている消防隊員を安全圈から恫喝する大臣
 永田町や霞が関ではなく、被災現場で体を張っているこうした日本人が震災発生後の日本人を精神的に支えている。東京消防庁ハイパーレスキュー隊の活動報告会が三月二十一日に渋谷区の消防学校で行われ、石原知事は参加した隊員一一五名を前に感極まり、言葉を詰まらせながら感謝を述べた。「みなさんの家族や奥さんにすまないと思う。もう言葉にできません。本当にありがとうございました」。石原知事はこう言って、涙を隠さず深々と礼をした。そして、「まさに命がけの国運を左右する戦い。生命を賭して頑張っていただいたおかげで、大惨事になる可能性が軽減された。このすさんだ日本で、人間の連帯はありかたい、日本人はまだまだ捨てたもんじゃないということを示してくれた。これを踏まえて、この国を立て直さなければいけない」と決意を語った。『産経新聞』は、活動報告会に参加した隊員の一人は「あの強気の知事が涙を流して礼を言ってくれた。上から物を言うだけの官邸と違って、われわれのことを理解してくれている。だから現場に行けるんだ」と話した。と伝えたが、この隊員の発言は以下の事情を踏まえてのことであろう。
石原知事は活動報告会のあった日、首相官邸を訪ね、菅首相に対し、東京消防庁の放水作業をめぐって政府側から消防隊員に恫喝まがいの発言があったと強く抗議した。知事によれば、政府側の人物から放水準備作業中の隊員に対して「言うとおりやらないと処分する」との発言があったという。石原知事は、菅首相に「みんな命がけで行い、許容以上の放射能を浴びた。そういう事情も知らずに、離れたところにいる指揮官か誰か知らないが、そんなばかなことを言うのがいたら戦にならない。絶対そんなことを言わさないでくれ」と。これに対して菅首相は、「大変申し訳ない」と陳謝したという。石原氏は記者団に「処分するという言葉が出て、隊員は皆、愕然とした。(現場の)指揮官は、それが一番不本意だったと言っていた」と述べた。真相は不明だが、都関係者によると「処分」と発言したのは海江田万里経済産業相だという。
(第二章 愚かな政治指導者を戴く国民の不幸)

 

 

戦後の日本人は、「過去の歴史」を待ち出し非難してくる相手に、無条件に弱くなった。非難の真偽を確かめるよりも前に頭を垂れてしまう。外国人が発言し、書き連ねる旧日本軍の悪辣さ、残虐さを無批判に信じ、自らの父祖の名誉を守ることに力を注がない。「過去は過去、いまの自分とは関係ない」という態度である。「靖国神社を参拝することはない」と明言した鳩山由紀夫前首相、続く菅直人首相の姿に、彼らが「痛切な反省」を表明する時代に日本人だった私は、強い違和感を抱かざるを得ない。
(第三章 日本人の精神的な礎)

 

 

近い将来、この福島原発鎮圧に関して、万策尽きるとするならば、政治は、万策尽きたあとの最後の一手として、危険な放射能のなかに突入する決死隊を募る決断をすべき局面に立たされる。不幸にして訪れるかも知れないその時のためにも、国家のために英雄を死地に赴かせるに値する保守救国統一内閣を樹立しなければならない。「士は己を知る者の為に死す」からである。
これを何と時代錯誤的な、と嗤う人もいるだろう。だが、大震災が私たちに問いかけている根本問題はこういうことなのだと、私はあえて指摘しておきたい。
(第三章 日本人の精神的な礎)

 

 

自分が生まれ育った村や町が理屈抜きで好ましく感じられ、故郷の山や川は何やら特別の、訳もなく懐かしい存在となっていく。初めて字を覚えた学校、一緒に遊んだ幼馴染み、踊り興じたお祭りの日の賑わい、優しかった市場のおばさん、そしてあの初恋の人……。一つ一つの思い出が、やがて年を経るにしたがって、「郷土愛」とも言うべき一つの素朴な、しかし揺るぎなき感情に包摂されていく。若い人たちにもこうした実感はあるはずだ。そしてある日、人々の暮らしを脅かす非常の事態に際会したとき、永年静かに堆積されてきた郷土愛が、熱く燃える愛国心へと昇華するのは少しも不思議ではない。愛する者を守りたいと思う人間の本能的な感情の発露である。
「愛国心」とはそれ以上でもそれ以下でもない。不当に貶められてはならないし、法外に誇張されるべきでもない。
(第六章 愛国心の本質)

 

 

世の中には二度死ぬ人間がいる。肉体的に死ぬことと、誰もその人のことを覚えていないという意昧での死の、二度である。
(第八章 それでも「無縁社会」「おひとりさま」をお望みですか)