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あらすじ
地下鉄で、酒場で、河原町の雑踏で――京の街角には歴史を見つける愉しみがある。人生の閉幕を意識し始めた作家は、常にこの国の歴史の大舞台であった地で思索を巡らせるべく、京都に仕事場を構えた。先斗町のバーで津田三蔵の幻を見、花街・島原に反体制の気配を感じ、「司馬遼太郎のソファ」に新撰組を想う。小さな発見が思わぬ史話へ発展する週刊新潮の好評連載を書籍化。知的興奮に満ちた68話の随想集。

 

ひと言
図書館で葉室 麟さんが京都のことを綴ったこの本を見つけた。葉室さんが亡くなってもう1年4ヶ月、66歳という早すぎる死だった。「蜩ノ記」「秋月記」、そして映画化もされた「散り椿」。ことしの春は、見に行きたいと思っていた京都「地蔵院」の五色八重散椿を観に行けなかったのが残念。それにして葉室 麟さんの幅広い知識には驚かされる。もっともっと葉室さんの作品を楽しみにしていたのに……。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

昔、読んだ文芸評論家、桶谷秀昭さんのエッセイを思い出した。明治の小説家、二葉亭四迷の筆名は「くたばってしめえ!」に由来するのは、よく知られているが、実は「くたばって」をロシア語表記すると、最初のKは子音になり、子音のKにTが続いた場合、日本語の「ふ」に近い音になるのだという。 二葉亭四迷は筆名を考えるにあたって、「くたばってしめえ」をまず、ロシア語表記したから「二葉亭」になったのだ、という指摘をしたのは司馬遼太郎さんだと述べてあった。
(ウオッカバーにて)

 

 

〈いもぼう〉は九州の唐芋と北海道の棒鱈を組み合わせた「奇跡の逸品」だから、九州の食べ物という感覚が間違っているわけではない。店の説明によると、〈いもぼう〉は江戸時代、元禄から享保にかけて青蓮院宮に仕えていた平野権太夫がある時、宮様が九州から持ち帰った唐芋を栽培したところ海老に似た独特の形と縞模様を持った「海老芋」となった。権太夫は宮中への献上品であった棒鱈と一緒に炊き上げて「いもぼう」を考案した。厚く面取りした海老芋と、一週間余りかけて柔らかく戻した棒鱈を一昼夜かけて炊き上げるのだという。
(いもぼうの味)

 

 

『近思録』(南宋の朱子が呂祖謙とともに、北宋時代の学者の言説からその精粋を選んで編纂したもの)に、
感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し
という言葉がある。興奮して命を捨てることはできるが、落ち着いた平常心のまま正しい道を選択するのは難しい、ということだ。 大石は「従容として義に就」いたのだ。しかし、迷わないわけではなかったろう。 山科に住んだ大石は、忠臣蔵では、祇園の「一力」で遊蕩したことになっているが、実際には伏見の撞木町で遊んだ。壮年の男性が女色に走る理由は「死」への恐怖ではないか。
(大石内蔵助の「狐火」)

 

 

沖縄戦での死亡者数は、日米合わせて二十万六百五十六人。日本人死亡者は十八万八千百三十六人で、そのうち、一般住民九万四千人を含む沖縄県出身者が十二万二千二百二十八人を占めている。県外出身の日本兵は六万五千九百八人が戦死している。 沖縄で戦った日本軍兵士の出身地は当然ながら全国におよんでいる。このため沖縄県内には全国四十六都道府県別の慰霊碑がある。
〈京都の塔〉は、そんな慰霊碑のひとつだ。那覇市より北の宜野湾市の嘉数高台公園にある。塔というよりは横長の自然石(鞍馬山の石で造られた)の慰霊碑だ。 首里の第三十二軍司令部を守るための陣地が築かれていた嘉数高地は米軍の戦史に記録されるほどの激戦地となった。 日本軍はトンネル陣地を構築しており、地形を利用して米軍を攻撃し、さらに爆雷を抱えて戦車に体当たりするという凄惨な特攻戦術までとった。米軍は嘉数高地を「死の罠」「忌々しい丘」と呼んだという。 戦闘は十六日間に及び、米軍は二十二台の戦車を失う損害を被った。 この嘉数高地の日本軍の主力は京都の部隊だった。京都出身の戦死者は二千五百三十六人である。戦後、沖縄に建てられた多くの慰霊碑には〈英霊〉を称える碑文が記されている。 だが、沖縄戦で軍と住民の間には、いわゆる〈集団自決〉の問題を含む深刻な亀裂が起きた。軍の慰霊碑に違和感を抱く住民もいるに違いない。 慰霊碑で沖縄県民についてふれているのは〈京都の塔〉と〈群馬の塔〉だけである。さらに郷土出身の兵士とともに、―― 多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない。 として非戦闘員である沖縄県民を哀悼しているのは〈京都の塔〉だけだ。 そのことの重みが、暑い陽射しの中でひしひしと伝わってくる。言葉にするのは難しいが、何かが見失われている気がするのだ。政府と沖縄県の対立を見るにつけ、もどかしい思いにかられる。
(沖縄の〈京都の塔〉)