学ぶスタイルの確立をどうやるの? | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊キョウイクの探究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


すみません、超長文になりました🙇

ここ1ヶ月程、学校での学び、生涯学習等について考えることが多くなっています。僕自身が「学び」に非常に興味をもっているためです。


前回学校教育のあり方について語りました。ただ最後の方に新たな疑問が浮かんできたために、失速気味の記事になってしまいました。


今回はその新たな疑問への解決チャレンジ記事となります。長くなりそうですので、お時間のある時にお読みいただけると幸いです。


以前も同じようなことで悩んでいます。そして結論としては「バランスが大切」というところに行き着くのですが、そのバランスの取り方を今回はより具体的に示したいと思います。

以前のブログ【2024.4.30 グライダーも飛行機も】

「学ぶスタイルの確立をどうやるの?」

です。


学校教育を、児童生徒の自己決定によって学習させていくスタイルに変えたい。そう考えて前回のブログ記事を閉じました。

しかしこの結論を出すと、いつももやもやするのです。「これまでの学校教育の内容を蔑ろにしてもよいのか?」と思うからです。

自己決定を促進すると、自分にとって不要だと思うものを切り捨てることになります。それは子どもたちが「苦手なものには取り組まず、得意や好きなことしか勉強しない」選択をすることです。そうでない子もたくさんいるでしょうが、おそらくは相当こちらに傾くと予想されます。


僕としては、学校教育で為されている半強制的な学び(学びというより、勉強)も必要だと考えています。学校は、飛行機の仕組みを教え、みんながグライダーで空に飛べるようにとカリキュラムづくりをしているからです。「基礎学力」と呼ばれる、思考するための知識を獲得させるようにできています。


ただこの知識や技能を身に付けさせるためには、自己決定による学習スタイルとは非常に相性が悪いのです。自己決定をすると、好きなものや得意なものに傾いてしまいがちだからです。


では、教える内容を少しでも子どもたちの興味のある形に変えて提供すればよい、と考えることができますが、これもまた上手くいきません。なぜなら、教員みんなが一流料理人にはなれないからです。


僕が見ていて優秀だと思う教員は、子どもたちを乗せる技能が高いです。面白くもないことを面白くさせる技術、それはあたかも食材が良くないのに美味しい料理を作る職人のような技術です。


みんなが研究してそのような教員を目指しますが、まあまず難しいです。そして悲しいことに、一流教師は自分ができているのでみんなができると思ってしまうことになります。「あなただからできるのですよ」と思うことは多々ありますが、そのような教師は謙虚なのでその事実に気づけません。



要するに、既存の知識や技能を身に付けさせるためには、ある程度の忍耐力が必要になるわけです。


最近の学校は、学校に行きたくなければ行かなくていいよと言う傾向にあります。この選択肢が与えられたことは望ましいことですが、1つ大きなデメリットもあります。それは、勉強から逃げる子が出てくることです。


海外では勉強という概念がなくなっているのかもしれませんが、日本ではまだまだ一般的です。そして何度も言うように、勉強はある程度必要なことだと僕は考えています。


その勉強を避けるということは、かなり選択肢を狭めることを覚悟しなければなりません。学校での半強制的な勉強は、社会で広く浅く通用するための学びだからです。



このようなことを総合して考えた時に、ある解をひらめきました。現段階の僕の解です。


その解とは、1つには

「学びには段階がある」

というものです。もう1つは「割合の問題」ということになります。

ここから順を追って説明していきます。


学びの段階1「やってみる」
まず初めに、何事も「知る」ことが大切です。これは何かしらの体験をしてみることで得られるものです。

最近次男がプールで泳ぐことを楽しむようになりました。潜れるようになってから1年以上経ちましたが、ここ数ヶ月検定を受けても不合格の状態が続きました。

どうして受からないのかな?と思い、重い腰を上げて一緒にプールに行ってみて、コーチが言っていることがよく分かりました。「水が怖かったのです」

潜れれば自然と上手くなると思い込んでいたので(長男は全く手出ししないで泳げるようになった)、意味が分からなかったのですが、実際に次男を見て「こりゃ無理だわ」と思いました。


潜れるけど、足を床から離すのが怖いわけです。手で支えてあげればできるけど、自分から手を離そうとはしません。僕はまずその恐怖心が抜けるように、少しずつ浮く練習を繰り返しました。

すると少しずつではありますが、床から足を離して浮かべるようになりました。「すごいね、浮けたね!」などと伝えていると、次男は得意気になってどんどん練習を始めました。


1時間程すると、何となく伏し浮きのような形がとれるようになりました。その頃には、「帰りたくない。もっと泳いでいたい。」に次男は変わっていました。


やってみることで、水を知り、自分ができるということを学んでいったのですね。


学びの段階2「繰り返してみる」
楽しくなると、自然とその行動を繰り返します。この時大切なことは、自分ができた感をもつことです。できた感をもてると、上手くいかなくてもどんどん練習したくなります。

しかしある程度やると、壁にぶち当たります。それが次の段階です。


学びの段階3「教えてもらう」
自分だけの学びでは限界が来ます。その限界が来た時に人から教わることが大切です。


何でだろう?何が上手くいかないのだろう?
あるいは
もっと上手くいくためにはどうしたらよいのだろう?

このような疑問が浮かんだ時がチャンスです。驚くほど素直に吸収できるからです。

「教わる」を最初にもってきても、興味がなければ続きません。まずやらせてみて、必要な時に「教える」ことが必要です。


学びの段階4「ループを繰り返す」
「分かる段階」から「できる段階」に発展させるためには、コツコツと繰り返す必要があります。

学びの段階1〜3までをループさせ続けるのです。

この作業は非常に単調です。例えば、たし算ひき算を習ったら、何度も繰り返して計算練習したり、文字の練習も繰り返したりします。

この単純作業を厭わずにできるかどうかで、学びの段階はこの先に向かうかどうかが決まってくるように思います。


学校教育が批判されるのは、この単純作業を子どもたちに多く課すからです。すでにできている子どもたちにも、何度も繰り返し単純作業を課しているのが現状です。


でもこの練習を繰り返さないと上手くはなりません。何度も同じことを繰り返すことも、できる段階にするには必要なことです。


学びの段階5「思考する」
基礎技術がある程度身に付いた段階から次に進みます。それは基礎技術を使って思考する段階です。


サッカーで例えてみます。インステップキック、インサイドキック、アウトサイドキック、インフロントキックなど蹴り方には何種類かあります。それぞれに練習が必要ですが、それがある程度できるという前提で考えます。


インステップキックは遠くへ強く蹴れる蹴り方ですが、方向や距離を定めるのが難しいキックです。

インサイドキックは簡単に正確に蹴れる蹴り方ですが、距離とスピードが出にくいです。

戦術として、パスを細かく繋ぐならばインサイドキックを多用しますが、カウンター攻撃などの一気に形勢逆転を狙うにはインステップキックが必要です。そのどちらも蹴れる状態になっていれば、状況判断をしてゲームを組み立てる幅が広がります。


この段階になると、基礎技術の上のもっと意味深いところに突入することができます。パスを主体に攻撃するか、それとも軸になる選手にボールを集めていくか、またはドリブルを多用するのか、など様々な戦術を考えられます。


文科省が求めているのは、この段階の子どもたちです。ここまで来れば、子どもたちは主体的に学びを深めることができます。


しかし、このレベルに到達できる子は限られます。クラスの上位20パーセントといった感じでしょうか。ほとんどの子はその前の段階で足踏みしています。


学びの段階6「自分の型を見つける」
この段階は、守破離の破です。自分が学び方を心得る段階です。


よく「東大生のノートづくり」などという参考書が出ていますが、本当に頭が良い人は自分で学び方を編み出します。これは自分がどんなことが得意で、どんなところに苦手意識があるのか「メタ認知」しているからできることです。

自分に合った学習方法を体得し、学びがより促進される状態です。この状態を作れる小中学生は極めて稀だと考えられます。


学びの段階7「マスターになる」
守破離の離の段階に入ります。これは「自分流」をもち、先生として活動できるレベルです。

達人と呼ばれる域ですね、きっと。

僕は自分がこの域に到達していないので、実際はどうなのか分かりません。ただ、物事の本質を捉え人に教えることができる人たちなので、学びのエキスパートであると考えられます。


達人が行うことは、周りから見ているとめちゃくちゃ簡単に見えますが、それを自分が行おうとしても絶対にできません。真似ができないからマスターなんですよね。




僕なりに学びの段階を考えてみました。僕が考えるには、小学校では、学びの段階4までを繰り返す方がよいと思っています。つまり人に教わったり、練習を繰り返したりしながら「できる段階」にまでもっていくことが大切だということです。


そしてこれは、半強制的な学びが必要な段階であると考えられるのです。できていないのに思考しても、浅く狭い範囲のものしか生まれません。そうであるならば、徹底的にできるようにさせる方が後々になって効果があるのではないかと思うのです。


ただそうは言っても、ひたすら同じことを繰り返しているだけでは面白くありませんよね。そこで考えたことが、もう一つの「割合の問題」です。




何の割合かというと、「思考する」以降の段階の割合です。具体的に言えば、学校教育の中に5段階目以降の時間を設ける必要があると考えたのです。


先程も書いたように、ほとんどの子は第四段階までで四苦八苦しています。ただそのような子どもたちであっても、思考することを求める時間が必要だと感じます。


思考する時間を設けるのは、学びの段階をスムーズに引き上げるためです。与えられる教育「しか」知らない子どもたちは、思考することを面倒くさがります。覚えることを中心に行うので、それ以上労力が必要な思考には行きつかないからです。


ただ、思考しなければ学びはそこで止まってしまいます。だから思考する機会を設ける必要があると考えました。



僕が具体的に行っていることは、授業中に思考する時間を作ることです。と言っても毎時間の授業ではありません。


単元全体を通して、思考する時間をとるところと、教え込むところとを分けている感じです。


例えば、分数の単元が8時間扱いであれば、6時間分は教え込んだり課題練習をさせたりして、「分かるからできるの段階」をつくろうとします。残りの2時間で、じっくりと思考させる時間をとるのです。


こうすると、約2割程度は思考の時間にとることができるようになります。教科書の進度とは異なりますが、僕はこの形が最適解だと考えています。


また、計算や漢字等のドリル的な練習は、できる限り家庭で行わせたいです。サッカーの例で言えば、インステップキックやインサイドキックのコツコツ練習は自主練させ、実際の練習時間には戦術練習や試合形式に多くの時間をとるという感じにしたいからです。


このようにすれば、思考の時間を学校でもかなり多くとれるのではないかと考えます。



とは言え、これは理想論であってみんなができるわけではありません。付いて来られるのは一部の子どもたちです。


そこで別の方法も考えてみました。それは習熟度別にクラスを分けることです。


自分の認知段階によって、どのクラスに入るのかを決めていきます。例えば、文章を書くことの授業をする時には、一文が何かを理解できていない子と、表現力を磨く子とでは課題を分けるといったところです。同じ教室の中でも、別々のことをやっている子がいるようにするのです。


ただこの場合には、相当クラスの中の人数を限らないと対応が難しくなるので、理想論的なところがあります。ただこのコンセプトは、自分の力量に合わせて学習するということなので、無理なく進めることができるようになるところにあります。


半強制的な勉強が必要であったとしても、それが自分が乗り越えられそうなレベルのものであれば、できた感をもてて学びを楽しむことができると考えます。これも割合を考えることの1つです。




「学びの段階を踏まえて、割合を変えて勉強させる」これが僕が今回考えた解です。


学校教育で教える内容も必要。それと同時に、思考する力を手に入れることも大切。その両立を図ろうとした時に、僕が出した答えは1つの参考になるのではないでしょうか。


極端に走るときっと上手くいきません。学校教育のあり方を根底から覆そうとすると、その反動が大きく出てきそうです。


それならば、「ちょっと変えてみる」という方法をとるのがベターではないでしょうか。僕が最近よく口にするのは「2割を変える」です。たった2割であっても、変化させたらかなり大きな変化に感じられるはずです。


みんながより良い学びを得られますように。僕はみんなが自分の学びを楽しめるようになればよいな、といつも願っています。


どうやったらできるのか?これからもまた考え続けていきます。


長くなりました。最後までお読みくださりありがとうございました。