僕の教育の最上位目標 | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊キョウイクの探究者の武井義勇(たけいきゆう)です。



最近、本間正人氏著『100年学習時代』を読みました。そして息子の学校の授業公開を見て考えたこともありました。

二つに共通していたことは、「これまでの公立学校教育でよいのだろうか?」という疑問です。今回は僕の教育観の変化について記していきます。


初めに、僕が今回思い至った教育の最上位目標を示します。念の為説明すると、最上位目標とは、それを最終的なゴールとして目指す目標のことです。

その目標を二つ設定しました。

「一生学び続ける人を育てる」
「人に愛される人を育てる」


これです。



本間さんの本を読んで改めて気づいたことです。日本の学歴社会というのは、恐ろしく狭義のところにあるということです。

例えば、東京大学出身です。慶應大学を出ています。そういった人に出会った瞬間に僕は思います。「この人は頭の良い人だ。」「この人は特別な人だ。」「すごいな。かっこいいな。」と。


そしてその中の多くの人は実際に頭が良いと感じます。就いている仕事もホワイトカラーで、かつ年収が高いものが多いです。


でも全ての人ではない。中には非正規雇用やニート等になっている人もいます。

僕は偏差値的には平均より少し上の大学を出ました。その中であっても、高年収の職業に就いたり著名になったりする人がいます。


何が言いたいかというと、日本で言われる学歴社会というのは出身校がどこであるのかが問われるだけであり、その人の本質を表しているわけではないということです。そして多くの場合、この判断基準が満たされるのは20代前半までです。


もし仮にこの時点での学歴が一生を左右するならば、人生100年時代だと言われる現代では、残り80年間までも決定づけられてしまうということです。こんなバカな話があるでしょうか。


僕は今まで生きてきた中で、ここ2・3年が一番学びを深めている実感をもっています。ブログを書いていることも大きいのですが、発信をするために情報のインプットも多く行っています。


学生時代とはまるで異なる学び方ではありますが、僕は以前よりずっと自分が「頭が良くなっている」実感をもっています。昔は気圧されて話し合いができなかった相手に対しても、僕は自分の考えを堂々と伝えることができるようになったからです。


本質の追究をしてきたから、何が大切で何が不必要なのかを理解することができるようになってきました。そして僕の発信によって、何かしらの気づきを得られる人が出てくるようになりました。


これは僕が最新学習歴(本間さんの著書に出てくる言葉)を更新し続けている証拠です。


40代になってから、僕の学びは加速しています。もし20代で自分の学びが終わっていると思っていたとしたら、今のこの学びの説明がつきません。人は学び続けることができるし、むしろ経験が増える分、年齢を重ねるごとにその質は深まっていくのではないかと思うのです。



僕は今44歳。もし自分が100歳まで生きられるとしたら、まだ半分にも達していません。本間さんが著書の中で、人生100年を24時間(1日)で表しているのですが、ここで僕の年齢は午前11時くらいだと書かれていました。僕はまだ人生の午前中にいるのです。



学びを続けるべき理由は他にもあります。それは学校で学ぶ内容が限定的だからです。


教科の学習内容をしっかりと理解したかどうかをはかる方法は、主にテストです。正解か不正解かを求められる答案用紙には、得手不得手がもろに出ます。

僕は比較的得意な方でしたが、必要感をあまりもっていなかったように思います。テストで百点を取ることは嬉しいことでしたが、だからといってそれを確実に取りたいというモチベーションはありませんでした。


その結果先程申し上げたように、偏差値的には平均より少し上の大学に入る程度の能力しかありませんでした。


けれど僕が今行っている学びは、その頃とまるで異なるものです。ブログやVoicy等から情報を得て、ずっと「考え続ける」という学び方をしているのです。どこかに正解があるわけではなく、一度正解だと思って出した答えも正しいとは限らないことばかり。


永遠に答えが出ないのではないかと思います。

最近はそれでも楽しめるようになりました。正解だと思って発信したのに、やっぱり正解じゃない。では一体何が正しいの?そうやって自分の中で揺れ動くこと自体が学びになっている実感をもっています。


学校で学ぶ内容には、ほとんど正解があります。その正解を求めて学ぶことは、僕の中ではあまり楽しいことではありませんでした。これが学校教育が限定的だと言った理由です。


さらには、学びは全てのことに当てはめられるという良さもあります。


よく「子どもは遊びの中から学ぶ」と言われますが、これが学びの本質の1つです。

僕が学生時代はまったのは、ゲームとマンガでした。多くの時間をこれらに費やしました。そこからたくさんのことを学びました。

マンガからは語彙を増やすことができたし、感性も磨かれました。

ゲームからは自分の特性を知りました。例えばRPGであれば、僕はコツコツと経験値やお金を稼ぐことが好き。成長に向けて、ちまちまと同じことを繰り返すのは自分の得意分野です。


例えば、競馬が大好きな人がいたとします。周りから見たら、浪費家で何のためにやっているのか分からないように見えることも、本人が本気で臨んでいると学びになります。確率によって賭けるものを決めたり、馬の体調を見る目が養われていたりするかもしれません。


そうやって知識や経験を重ねていくうちに、常人離れした能力が備わっていく可能性を秘めています。



どんな小さな経験であったとしても、その経験を何かの役に立てることは可能です。学びは無限に広げることができます。


そして学びのさらなる良さとして考えられるのは、「意欲が枯渇化しない」という点です。

自分が学びたいことを学んでいる時、自分が努力しているとはあまり意識せずに頑張れるものです。

時々「えっ!?そんなこと調べて何がおもしろいの?」と思うようなことに真剣に取り組んでいる人を見かけます。周りから見たら価値のないように見えることも、本人にとっては三度の食事を忘れるくらい夢中になれます。


学校で学習する内容は、その人に興味があることだとは限りません。実際僕の場合、数理系の教科には非常に苦手意識をもち、取り組む気持ちをもてませんでした。

その点自分が学びたい内容に対しては、周りが止めさせようとしても止めさせることはできません。学びとは100%の主体性を伴います。



このように、学びというものには限界がありません。そうであるならば、学校教育が目指すところは、この「学びを促進するための能力」を獲得させるところにあります。



具体的な方向性としては、自己決定を促し自分から知識を獲得していくような授業づくりをすることにあります。


個人の興味関心をベースにしたカリキュラム編成を行えるのが理想です。ただ現実的にはこれは難しいです。


また本人にとって必要ないと判断した知識であっても、実際にはそれが役立つことも多いのが学校での学びです。

例えば、1年生の国語の学習で「句読点の付け方」を学びますが、これはそれ以降の国語の学習に欠かせないものです。一文意識がなければ説明文を正確に読み解くことはできないし、表現する際にも要点を絞る力に影響します。

このような学習は地味で面白みのないものです。子どもたちの大半の目は、死んだ魚の目のように輝きを失って見えます。

しかしだからといってこのような知識を蔑ろにすると、後々になってダメージが大きくなります。知り合いの大学教員は、「大学生が作文をできない」とぼやいていました。一文が長く、主語と述語が捻れる等、文章を書く基本が分かっていないので、何が言いたいのか分からないのだそうです。


学校で教えていることも大切。その上で自己決定による学習も必要です。


これを可能にする方法を僕は「2割は学習歴更新に当てる」と考えました。


総合的な学習の時間というものがあります。僕はこれを全て本人の学習に当てることを望んでいます。


今はこれすらもカリキュラム編成しています。それもそれで意義があるのですが、学校にいる間全てが教師主導のカリキュラム編成では子どもたちの学びは促進されません。


また、教師主導の学校教育を変化させるために、もう一つ考えている方法があります。それは各教科の授業自体を8割程度に絞ることです。


公立学校教育は丁寧すぎるきらいがあります。1年生はお客様扱いをされ、教員が手伝うことが多すぎます。例えば給食の準備ですが、子どもたちは保育園や幼稚園でも当番活動を行ってきています。ですのでやらせようと思えば、1学期の途中からでも全て子どもたちに任せることができます。


それにも関わらず、学校では1年生を何もできない子ども扱いします。それが子どもたちの自尊心と成長を奪っています。


もっと手をかけなくてよいのです。子どもたちに任せてしまいましょう。そしてその行動の責任も子どもたちにとってもらうのです。子どもたちは想像以上にいろいろとできることでしょう。

それは結局あらゆるところで時短になります。授業も、これまで20分かけていたものが10分でできるようになります。この浮いた時間を子どもたちの自由の範囲として活用させます。


こうすることで、自ら学ぶ学習者を育てることができるのだと、僕は推察しています。教えるべきことは教えるけれど、その内容をぐっと絞ります。その余りの時間を学びに全て当てさせるわけです。


教師は余計なことをくどくどと説明しすぎます。時間を守れ、友達とは仲良くしろ、宿題をしっかりとやってきなさい、などと話をするのに多くの時間を費やします。これが無駄。


子どもたちをもっと信じていいです。また上手くできない子がいたとしても、それ自体が学びに繋がります。だからぶん投げてしまってもよいわけです。


このように要点を絞っていくと、些末なものが何かが自ずと分かってきます。最上位目標から考えて、その優先度合を低く設定することができるようになります。すると学校教育の多くのことが無駄であることに気づくはずです。


全てを、子どもを学習者に育てることに向けるべきです。それは自ずと「いかに教えないか」を考えることです。教えることと教えないことを明確にするのです。その判断基準が「これは学びに繋がるかどうか」になるわけです。



今回は、最上位目標の1つにしか言及できませんでした。けれどきっとこれが最も大切です。人生100年時代には、学び続ける人を育てなければならないからです。


これを達成するためには、みんなのマインドセットを変える必要があります。僕の発信がその一助となることを期待しています。

みんなで学習者として学び続けましょう。


最後までお読みくださりありがとうございました。