いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
今日はまた辛口の記事内容となります。読んでいて不快になってしまったら、そこでおやめください。先に謝ります。ごめんなさい。
今日はまた辛口の記事内容となります。読んでいて不快になってしまったら、そこでおやめください。先に謝ります。ごめんなさい。
今日の要点は「人生のどこかのタイミングで、人は必ず自分の弱さに向き合った方がよい」ということです。
僕は基本的に、人間は弱いものだと考えています。弱いというより「不完全である」と捉えた方がよいです。どんなに優れたように見える人も、完璧ではありません。
僕は基本的に、人間は弱いものだと考えています。弱いというより「不完全である」と捉えた方がよいです。どんなに優れたように見える人も、完璧ではありません。
僕が尊敬する方々に共通しているところがあります。それは「謙虚である」という点です。謙虚な人は、自分が不完全な人間であることを自覚されていて、常により良くなろうと努力されます。
さらに自分が不完全だと分かっているので、他者が不完全であることに寛容でもあります。
このような方々は普段から落ち着いていて、賢くて、品が良い印象をもっています。
僕は、皆が不完全であることを自覚すれば、平和な世界を築けると考えています。そうならないのは、人は不完全であるが故に、自己中心的な思考でぶつかり合うからです。「常に謙虚であれ」と思うものの、それもまた完璧にはできないのです。
故にこの世界からトラブルがなくなることはないと考えます。天国のような世界は、絶対に成り立ち得ないと思います。
では完璧を目指さなくてよいかというと、それもまた違います。やはりより良い社会を築く努力が必要となります。そしてその社会を築くためには、やはり自分が不完全な存在であることを自覚する必要があるわけです。
ここまで、ぐるぐると同じところを行き来してしまいました。分かりにくかったと思うので、具体的なエピソードを基に説明します。
最近小学校でも不登校が相当増えてきています。実際に不登校とカウントされる数はクラスに一人いるかいないかの数ですが、潜在的にはクラスの五分の一くらいの割合で学校に合わない子がいます。
もはや時代と今の学校教育が合わなくなっていることの証拠ではありますが、この中の一部の子に対しては別の見方をしています。
割合的には少ないですが、明らかに「面倒臭いから学校に行かない」を選択している子がいます。
例えば、宿題の量が多すぎて行かない。給食に苦手なものが出るから行かない。友だちが自分を相手にしてくれないから行かない。
といった感じで、「その程度で休んでしまうの!?」と思うレベルの子がいるのです。
今の学校教育は、無理に学校に来させなくてもよいとなっています。苦しかったら、嫌だったら学校に行かなくていいよと伝えられます。それは学習権をもっている子どもの選択なのでよい仕組みです。
しかしそれによって失われたものも存在します。それは「レジリエンス」です。
社会の中で生きていれば、気に入らないことややらなければいけないことが出てくるのが当然です。それを多くの人は「苦しいな、嫌だな」と思いながら乗り切っています。
そのように乗り越えていくことで、少しずつレジリエンスが磨かれていきます。自我強度を高めていくわけです。
この力を高めておかないと、社会の中では何の力ももてない人間になります。社会に貢献するどころか、時にはお荷物になってしまうこともあるのです。
これらの人には共通したいくつかの特徴があると、僕は考えました。ここから箇条書きしてみます。ここに当てはまる人は要注意です。
1.人のせいにする
弱い人間かどうかは、これ一択で判断できてしまえます。何事も人のせいにする人がいます。自分は悪くない。周りが悪いのだと。
自分の失敗や落ち度を認めることが怖くて、何かのせいにしないと自分を保たないほど弱いのです。人のせいにする人とは、付き合うべきではありません。
2.万能感をもつ
自分の弱さを認められない人は、できないことをできると思い込む傾向にあります。
小学校でよくあることが、提出物を提出しない、時間に遅れてくる等客観的に見て信用できない子どもが、代表委員などの要職(子どもたちにとって)に就こうとする傾向にあります。僕は咄嗟に「えっ!?」と言ってしまいますが(笑)、平然と立候補してくるのです。
さらに言えば、賢い子たちは代表委員があまり魅力的なものでないことを知っているので、本当にクラス代表になって欲しい子が出てこないジレンマも抱えています。
自分を的確に振り返る力のない人は、万能感を宿しやすいです。コロナ禍の時、街に繰り出した若者にインタビューしたニュース番組がありました。その時インタビューを受けた若者が「コロナかかってこいや。オレがコロナを絶滅させてやる!」などと叫んでいたのを観ました。愚か者の典型ですね。
3.可哀想な私をつくる
自我強度の弱い人間は、「自分は可哀想な存在」の衣をまといます。社会的弱者であることをアピールするのです。
「自分にはアトピー(そこまで外部に見えない)があるから周りから拒絶される。」
「お母さんがいつも怒るから宿題をやってこられなかった。」
「成長痛で足が痛かったから、体力テストの結果がよくなかった。」
などと言います。自分の弱さではなく、他のモノに原因転嫁して可哀想な自分にすることで、同情を買おうとします。僕も昔このタイプだったので分かるのですが、大嫌いな自分です。
4.自分で打開しようとしない
自我強度が弱いので、当然自分から問題を解決しようとしません。何かあれば人のせいにして、責任を放棄します。
仕事上でこれをやられると、「できる人」にその尻拭いをさせることになるのでリソースが著しく奪われます。共同体にとってマイナス要因でしかありません。
5.やってもらって当たり前
4に繋がって、自分で打開しようとしないということは、他者にやらせるということです。そしてここが見極めポイントなのですが、「感謝しない」人は自我強度の低い人です。
感謝しない人は「人にやってもらうのが当たり前」という思考になっています。自分のために周りが動くのは当然。もし動かなければ、なぜ動かないのかと不平不満を口にします。
教員あるあるですが、年度の初めの方で「◯◯先生(前年度の担任)は◇◇してくれたのに。◯◯先生の方がよかったな〜」と呟く子どもがいるものです。僕はこの言葉を聞くと、余計にその子に何もしてあげたくなくなります。サービスを一度受け取るようになると、それがなくなった時に不満を述べるようになるのです。
余談ですが、僕はこれを避けるために極力子どもたち自身で多くのことをさせます。僕は手取り足取りといったサービスを一切していません。でもこの方が子どもたちが鍛えられることを感じています。
6.自己都合しか発信しない
「オレの飯はまだか。」「なんだこの飯は!こんなのだったらコンビニの弁当を買ってきた方がよかったわ。」「なんだ!風呂も洗ってないのか。ちゃんとやっておけよ。」「子どもがうるさくて(ゲームに)集中できないわ。黙らせろ!」
今は少なくなりましたが、平成年間にはこういうモラハラ夫がそこかしこに見られましたよね。
こういう輩には、この一言で撃退です。
「だったらお前がやれよ!」
この手の者は、自分のことしか考えられないお子ちゃまです。自分を満たすことしか興味がなく、自分を満たすことだけに邁進します。
自分を見つめる力が皆無なので、仮に周りから嫌われたとしてもそれも相手のせいになります。こういう輩は絶対に幸せになれないでしょうね。
7.他者の労力と時間を奪う
これはまとめのような項目です。
自我強度の低い者は、他者の労力と時間を奪います。そして残念なことにそのことに「無自覚」です。自分を見つめる力がないので、他人の気持ちや状況などには無関心なのです。
今の学校では、レジリエンスを鍛えづらくなっています。子どもたちに手をかけることが良いこととされ、ちょっとでも苦しいことや嫌なことがあれば「休んでいいよ」と言われます。
そのような不快感に向き合うことなく、乗り越えようともしません。今後はそのような自我強度の低い人間が増えていくのではないかと危惧しています。
反対に、本当の意味で自分が弱い人間だと自覚できれば、自分を磨こうとすることができます。自分が弱い存在だということは「当たり前のこと」であり、それが自然です。
自分だけが特別なのではありません。みんな不完全で弱い存在なのです。それにも関わらず、自分だけが特別な存在であろうとするのは、自然界の法則からの逸脱行為です。それは愚かなことでもあります。
不思議なもので、このことを腹に落とし込んでしまうと、世の中のことがクリアに見えてきます。肩肘張らずに生きていくことができます。
人は自分の人生の中のどこかで、自分の弱さに向き合った方がよいです。そうすることで、よりよく生きることができると僕は考えるからです。
「そんなことないよ。あなたが言うことは間違っている。」と言う人がいても構いません。ただ1つ言えることは、このことを否定することで、苦しさから開放されることはないということです。
よりよく、幸せに生きるために、自分の弱さと向き合ってみてはいかがでしょうか。
最後までお読みくださりありがとうございました。