いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
令和6年6月5日、現在このブログを作成中です。数行書いてみて、「これはまた長文になる」と思ったので前段に戻って記しています。
令和6年6月5日、現在このブログを作成中です。数行書いてみて、「これはまた長文になる」と思ったので前段に戻って記しています。
この記事は長いです。お時間のある時にご一読いただけたら幸いです。ではよろしくお願いします。
藪下遊・髙坂康雅氏共著『「叱らない」が子どもを苦しめる』の中に「世界からの押し返し」という言葉が出てきます。
これについては以前ブログにも記したので合わせてお読みいただきたいのですが、今日の記事はこれをもっと深掘りしていきます。
【2024.4.16 世界からの押し返しは無くならない】
僕がこの本を読んでからずっと、世界からの押し返しを意識してきました。そして朧げながら少しずつその実体が掴めてきました。
僕が考える「世界からの押し返し」とは、ざっくり言うと
「自分の思い通りにならない世界から与えられる、成長を促す試練(機会)」
です。
自分の周りの世界は、思い通りにならないことに溢れています。
生まれてくる家や国を選ぶことができません。
健康に生まれてくる保証はありません。
イケメンに生まれてきたかったけど、そうはなりませんでした。
大学受験に失敗しました。
就職時期も逃しました。
仕事上では上手くいかないことばかりです。
ざっと考えただけでもこれだけのことが思い起こせます。おそらくあなたにも同じように、思い通りになっていないことが溢れてくるはずです。
では、この世に自分の思い通りに生きられている人はいるでしょうか。僕は誰一人いないと思っています。なぜならば、僕たち人間は既に作られた社会に産み落とされてきたからです。
良い悪いではなく、ある社会に生まれてきたことは絶対的な事実です。そこに生まれたからには、その社会で生きていかなければなりません。だから自分の思い通りにならないことがあって当然なのです。
先日、UNHCRの方から「難民」についての現状を伺う機会がありました。話を聞いたり画像を見たりしているうちに、自分がどれだけ恵まれた環境に生きているのかを痛感しました。
難民の方々に比べたら遥かに恵まれているはずの自分ですが、それでも不平不満をもたずにはいられません。つまり「自分の思い通りに生きられている実感」をもてずにいるわけです。
ということは、自分の思い通りに生きられている感覚は、相対的なものではなく絶対的なものであると考えられます。自分が「思い通りに生きられている」と思えればそうだということです。
ただそう思える人は限りなく少ないでしょう。やはり社会とは厳しいものだからです。
でも、多くの人はそんな社会の中でもそれに抗いながら生きています。時には生きる喜びを見出して、「人生って捨てたものじゃない」と思いながら生きています。
この実感を得るためには、世界からの押し返しを適切に処理することが求められます。自分が産み落とされた社会の中で、思い通りにならない経験を乗り越えていくことで強くなっていくのです。
最近学校教育で違和感を覚えることがあります。それは「学校に行くのが嫌だったら行かなくていいよ。」と言う保護者が増えたことです。
子供たちもとても軟弱になったように感じます。
「同級生に、バカと言われてショックだった。」
「給食に嫌いな食べ物が出るから行きたくない。」
「宿題をやってなくて先生に怒られるから怖い。」
「忘れ物をすると笑われるから行きたくない。」
気持ちはよく分かります。分かりますが、正直「その程度で!?」と思います。
さらにはこういう訴えをした時に、何の押し返しもせずに学校を休ませる保護者が多くなった印象です。
おそらくこの記事を読まれる方は、こういった日々のモヤモヤした経験があっても、その都度乗り越えてこられた人が多いのではないでしょうか。なぜならこういったことは「そういうものだ」と受け入れるレベルのものだからです。
例えば、学級が崩壊していて自分が常に傷つけられるかもしれない環境にいたら話は別です。身の安全が保証されない環境ならば、逃げることを推奨します。
しかしそうではないにも関わらず、「嫌なことがあったら逃げてもいい」といった最近の社会の風潮には、明らかに不快感を抱いています。
今所属校に、教育実習生が3人来ています。3人ともよくやっていて、一生懸命です。
しかし最近若者を中心に「退職代行サービス」が流行っていることに危機感を感じます。
職場で嫌なことがあったから辞めたいのだけど、自分で言うと角が立つから代行会社にお願いをするといった感じらしいですね。
僕はこういったサービスを気軽に利用してしまう人は、世界からの押し返しに適切に対応してこなかったのだと考えています。
人は誰でも職場で不快な思いを経験します。僕も何回腑が煮えくり返るような経験や煮え湯を飲まされるような経験をしてきたことか。その度に「こんな仕事絶対辞めてやる!」と思ってきました。
でもそう思っても、その場を何とか凌いで再び立ち上がってきました。みんなそうやって、辛い経験を乗り越えながら生きてきているわけです。
退職代行サービスにお願いするということは、そこからも逃げてしまっている状態でしょう。例えばうつ病になってしまった人が利用するなら理解できます。けれど多くは「自分で退職を伝えるだけの勇気が出ない」人なのではないでしょうか。
はっきり言って、そのような人はどんな仕事に就いても上手くいかないと思います。何度も言うように、自分の思い通りになる社会など存在しないのですから。
どこかのタイミングで気づくしかありません。「自分が社会にアジャストさせなければならない」ことに。
僕は「自分の人生の操縦桿を自分が握れ」と訴え続けています。しかしこれは「自由気ままに、自分都合に合わせて」生きることではありません。
世界からの押し返しを適切に処理できるようになった人が、次に向かう段階になった時に向けた言葉なのです。
つまり僕が訴えたいことは、「まず社会ありき。その社会にある程度アジャストさせてから個性を発揮すべし」ということです。
これを僕は『和して自分』という言葉で表しています。
通常、人はこれを無意識に経験しています。生まれてから自意識をもつようになるまでにも、たくさんの世界からの押し返しを経験します。
赤ちゃんがオムツが汚れて不快になった時にワンワン泣きますが、いつもいつもお母さんが近くにいてすぐに対応できるわけではありません。しばらくの間放っておかれることもあります。
2歳の子供が、イヤイヤと泣き叫んでいた時に、いつもいつもその気持ちに共感される言葉を投げかけられるとは限りません。時には怒鳴りつけられることもあるでしょう。
兄弟げんかをした時に、自分は悪くないのになぜか自分が悪者にされてしまった経験がきっと多くの人にもあるはずです。
この世は不完全です。だからいつもいつも自分の要求を満たすことは不可能なのです。
不完全な世界に産み落とされた自分は、その社会に揉まれながら生きていくしかありません。さらに言えば、そのように揉まれることによって自我強度が高まり、社会の中でより逞しく生きていくことが可能になるわけです。
だから、世界からの押し返しはむしろ必要不可欠なものだと考えられます。
これがあることによって、人は強くなり社会の中で生きていけるようになるということです。
そのように考えてみると、最近の社会は自我強度を高めるどころか、環境対応に脆い人間を育ててしまう傾向にあると思います。
会社に入ればある程度の試練を覚悟する必要があります。でも最近は上司がちょっとでも部下を叱ろうものならば、パワハラだ、モラハラだと言って訴えられるような世の中になっています。そして余計なトラブルを避けるために、上司が若手を玉のように扱うようになり、自我強度の弱い人間が育ちます。
仕事というのは、他者貢献を行動に表したものです。他者に貢献するためにはある程度の労力を投入しなければなりません。しかし玉のように扱われた若手は、他者貢献するに至りません。自分のことを優先するために、他者を喜ばせることとは真逆の方向に向かうからです。
つまり、若手を玉のように扱う風潮は、社会全体の生産性を下げてしまうことに他ならず、それはイコール国力も弱めていくことに繋がるのです。
僕はこのことにとても危機感をもっています。それは日本がダメになるからなどの理由からではなくて、みんなが生きにくい社会が生まれる可能性があるからです。
どういうことかというと、もし自我強度の弱い人間が組織にいたとしたら、その力をサポートする必要が出てきます。ではサポートする人は誰かというと、自我強度の高い人たちです。この人たちは他者貢献を喜びとできる人なので、どんどん働くことができます。
するとこういった人たちに仕事が一極集中していきます。加えて、自我強度の弱い人のサポートをしなければなりません。この労力たるやいかほどのことでしょう。
当然自我強度の高い人たちにも限界が来ます。そういった人が潰れたり辞めていったりすると、組織としてはさらなる苦境に立たされることになります。
この苦境を乗り越えなければならない時に、戦力にならない者ばかりが残ることになります。どういった状況になるかはご想像にお任せしますが、とても生きにくい社会になることは容易に分かるはずです。
僕は、学校教育と子育てを通して、こんな社会にさせまいと尽力しています。そのための1つの方法として、
「世界からの押し返しをする」
ようにしているのです。具体的には「ダメなものはダメ、良いものは良い」と伝えることや、人としての道理を説いています。
人の迷惑になる行動をしている子には、かなり厳しく指導します。
「あなたのやっていることは、他の人から◯◯のように見える。それを続けるのであれば、教室を出なさい。」
とか
「信じられない。あなたのわがままによって◇◇さんが傷つきました。私はそれを許さない。」
といった感じで伝えます。
言われた方はもしかしたら「そんな言い方をされたら直したいとは思えない」などと思うかもしれません。でも僕はこれが世界からの押し返しになると思っています。
社会に出てから、自分の気持ちを慮って全ての人が接してくれるでしょうか。僕が投げかけた言葉以上にキツくて冷たい言葉を投げかけられることはたくさんありますよね。
今SNSでの誹謗中傷が酷いですが、あれなんてもう見るにも聞くにも耐えられません。
そういった社会に、何の強度も投げ出される子供たちは不憫ではないでしょうか。社会に出たらすぐに上手くいかないことに出会います。そうなった時に、それを乗り越える手立てを知らずに社会人になってしまうのです。僕はこちらの方が可哀想だと思うのです。
僕が心掛けていることは、学校と社会を隔絶させないことです。学校社会はどこか治外法権的なところがあり、悪いことであっても「教育」の名の下、優しく諭されるだけで終わります。ここで身に付けられるのは、愚かな万能感だけです。
学校であっても社会の一部です。失敗が許容される範囲は広くてもよいですが、社会とはどのようなところなのかを伝えていくことの方が大切だと僕は思うのです。
とは言え、社会と一言で言ってもその人自身の経験による認知に影響されるので、「社会は厳しいところだ」と認知している人がいれば、「社会は優しくできている」と認知している人もいます。つまり誰が語るかによって異なります。
だから僕は、道理を説く必要があると考えています。
例えば、人に優しく接したら優しい人が寄ってくる、人に攻撃を加えたら反撃される、これが道理です。
努力をコツコツと積み上げた人と、一発逆転を狙った人では、成功の確率は前者に及ばないことも道理です。
こういった「人間界(自然界)のルール」を子供たちに語っていく必要があると僕は考えます。それがゆくゆくは社会に出た時の一助になると思うからです。
世界からの押し返しを適切に処理できる子供たちを育てましょう。そうしなければ、社会はどんどん歪んでいきます。
おもむろに厳しくしろとは言いません。ただ、道理に合うかどうかを考えながら、その人の行動を見る癖を付ける必要があると思います。
適切に押し返し、みんなで力強い社会を作っていきましょう。
最後までお読みくださりありがとうございました。