多くを求めると上手くいかない | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


ここ数年、保護者からのクレームが減りました。僕の年齢が保護者よりも上になってきたことやベテランと呼ばれるくらいの年次になったからという理由が考えられます。

それでも時々クレームが入ります。そしてそれには一定の理解を示せます。僕はクレームを受けるべくして受けていると考えられるのです。


今日は僕の失敗談を基に、より生きやすくなる思考について記します。何かのヒントになれば幸いです。



僕がクレームを受ける時の理由は、ほとんど1つに集約されています。その理由は

「無配慮だった」

というものです。宿題の量を考えずに課してしまったり、喧嘩の仲裁をする時にこちらが一方的に話してしまったりするなど、子供に寄り添っていない場合です。


この時の僕の思考は、忙しさなどによって相手のことを考える余裕がなくなり、自分本位になってしまっています。


このような状況の時に、クレームに繋がるような事件を起こします。


ただここ最近はそれがほとんど起こりません。その理由は明確です。

「僕が子供たちに多くを求めなくなったから」です。どういうことかを説明します。


対応が雑になる時、大抵相手に多くのことを期待している状態です。例えば、4年生ならばこのくらいできて当然だろう、と自分の中の基準で子供たちを見て、その基準値に達していない時にイライラするわけです。


基準値に達していないので、どうしても直接的な言葉で正そうとします。

「授業中なんだから静かにしろよ。」
「時間に遅れてくるのなんてあり得ないんだけど。」
「何回忘れ物したら気が済むんだよ。いい加減にせいよ。」
「当番には責任感をもって臨みなさいよ。」

などと怒気を含んだ伝え方をしてしまいます。


最近の子供たちはとても良い子ばかりなので、それでも言うことを聞いてくれます。聞いてくれますが、不満が彼らの中には残るものです。

その不満が何かしらの形で表出してくると、問題が起きやすくなるのです。


僕は教員を続けてきて、この仕組みを肌感覚で捉えることができます。だから自分が基準値を高めてしまっていることに気づいた時には、わざと手綱を緩めるように心掛けています。



例えば、月曜日(週明けの最初)の朝はテンションを上げすぎないようにしています。そもそも自分が憂鬱な気持ちでやってきているのですから、子供たちの中にも同じように鬱々としている子もいることでしょう。


以前は「週明けだ!今週も1週間頑張ろう!キラリ〜ン」などと妙なハイテンションで臨んでいましたが、もうここ何年もそれをしなくなりました。だって自分が憂鬱なのに、それを誤魔化しながらテンション上げるとめちゃくちゃ疲れるのですもん。


セルフ・コンパッションを学んでいる僕は、月曜の朝はとにかく内にこもるようにしています。エネルギーを外に向かって放出すると、週の半ばくらいに反動でかなり疲れるからです。だから月曜日の朝はローテンションで向かいます。


「ああ月曜日が来ちゃったよね。これから1週間しんどいよね。んじゃ、ボチボチやっていこうか。」

みたいなことを子供たちに話します。この時、机に突っ伏して聞いている子がいても注意しません。自分だって同じようにしたいのですから。

ただ月曜日の朝からバッチリ元気な子もいます。そのような子に対しては、「いいね〜元気で。1週間が楽しくなりそうだ。」といった感じで認めます。


昨年度と一昨年度は最悪でした。なぜなら月曜日の1時間目に体育館体育が入っていたからです(笑)。テンション上げざるを得ない授業。マジでしんどかったです。


このように子供や自分が疲れていると感じた時は、手綱を一気に緩めるように気を付けています。授業の乗りが悪いと感じたら、突然ゲームやなぞなぞに切り替えたりもします。とにかく、ゴリゴリ押すのは得策ではないことを僕は学んできたのです。



教員の中にはゴリゴリ押しの人も今だにいます。そこまで子供に求めなくてもいいんじゃないの?と思うようなことを、平然とした顔で求めます。心の中で「鬼か!」と思います。

でもかつての僕はそのタイプでした。熱血教員だった僕は、フルパワーで子供たちと接していました。子供たちの中にはそれで力を伸ばした子もいましたし、その頃の方が僕は子供たちにも人気の教員でした。

ではゴリ押し教員の方が良かったのでしょうか?僕は明確に「否」と答えます。かつてのような情熱もなければ人気もなくなった僕ですが、そこに戻ろうとは1ミリも思いません。


なぜそう思うのか。それが人間の道理だと感じるからです。


フルパワー教員は多くの子供たちを導くことができるかもしれません。しかしそれに付いていけない子供にとってはかなり苦しい状況に追い込まれます。

緩め教員は、平凡な学級経営しかできません。しかしそのことによってみんながそれなりに楽しく学校生活を送れるかもしれないのです。


強い力には反動も大きくなり、逆に触れる力によって問題も大きくなりがちです。


かく言う僕は、フルパワー教員だった頃の名残をそこかしこに残しています。というのも、先日長男の学校公開に行った時にかなりの衝撃を受けたからです。


(長男の学校の)先生はあまり子供たちを叱りません。授業中後ろを向いている子や落書きをしている子がいても注意をせずに、淡々と授業を進めます。

体育で体育館に移動する際、廊下に並んでから出発するまで10分くらいかかっていました。


規律を大切にしたい僕からしたら、あり得ないような状況でした。


でも子供たちを見ると、みんな何だか楽しそう。学級崩壊しているんじゃないのか?と思うような状況なのに、子供たちはいたってのんびりしていました。


僕はクラスの子供たちに多くを求め過ぎてきたことに気がつきました。そんなにキビキビと行動させなくても子供は育ちます。それに小学生なのだから、あまりゴリゴリ学習させなくてもよいのかな、と反省しきりでした。


小学校の教員をしていると、子供たちを小学生のうちに何とかしなければならないと無意識に頑張ってしまいます。それは責任感の強さの裏返しなので、一概にダメなことだとは言えません。


けれど大抵の場合、これが強くなりすぎると、子供たちに多くを求め過ぎて子供を潰してしまうのです。


自分の理想を追い求めることは悪くありません。しかしそれに子供や周りの人を巻き込みすぎるのは避けた方がよいです。教員をしていると、つい理想を押し付けてしまいがちです。このことを常に頭の片隅に置いておく必要があります。



僕が今回このような内容をお伝えしているのは、何よりも自分を守りたいと考えたからです。

他者に多くを求めるということは、自分にも同じくらい多くを求めるということです。そしてそれはとても苦しいことなのです。


例えば昔は、宿題として「音読2回」「算数プリント1枚」「漢字2ページ」を課していました。早い子でも1時間近くかかるような内容でした。それを僕は平然と課していました。出来なかったら怒鳴るといった感じです。


でも、仕事から家に帰って寝るまでの3時間くらいの間に、同じような仕事を宿題として課されたとしたらしんどくてたまらないことに気づきました。自分だってできないのに、それを子供に課すのは理不尽極まりありません。僕はそれに気づいて以降、宿題の量をかなり減らしました。

そしてそれは同時に、自分を守ることにも繋がっているのです。

子供たちに多くを求めなければ、子供たちも僕に多くを求めません。僕は子供たちに、自分が不完全な人間であることを公言しています。できないものはできないよね、と。


だから提出物等には結構緩めに対応しています。できないことに関しても、以前よりは遥かに寛容になりました。そうやって緩めることによって、比較的安心の空気を生み出すことができるわけです。


安心の空気は、そこにいる全ての人を包みます。僕は最近、この空気の中で仕事をすることができています。

もちろん完璧には無理です。けれどこういう空気感を作る努力をすることで、すごく生きやすくなったことを実感しています。


だから僕はオススメします。「他者にも自分にも多くを求めるのをやめましょう」と。きっとその方が生きることがより楽しくなるはずですから。



最後までお読みくださりありがとうございました。