機能価値を高めることが、存在価値も高める | 武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきたいです。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


今日は、当たり前のことを書きます。でも今まで意外と言語化してこなかったことなので、記録として残しておこうと思っています。


その当たり前のこととは

「機能価値を高めれば高めるほど、存在価値も高まる」

ということです。


これらの言葉の定義づけをするのは難しいので、ここでは簡単に押さえます。機能価値とは、努力や労力等で得られた能力、存在価値とは、周りの人から必要とされる度合という意味で記しています。




一般的には、存在価値というのは人が生きていればそのままある価値のことで、これは何かによって変化するものではありません。ただ、今回の意味で考えるとしっくり来ることがあると思うので、上記の定義づけで話を進めます。



教室で子供たちを見ていると、本当によくクラスのために動いてくれる子がいるものです。最近の記事にも書いたように、今年度のクラスの子供たちにはそのような子が多いです。


そしてこのような子供たちの存在価値はとても高いと感じます。砕けた言い方をすれば、いてくれるととても助かるのです。


例えば、配布物がいっぱいある時に「手伝ってくれ〜。」と頼むと、何人もの子供たちが出てきてやってくれます。しかも失敗やトラブルが少なく、すっと終わります。

機能価値が高い子供たちなので、相手が何を欲しているのかを察知して、自分で考えて行動してくれます。


これが機能価値の高くない場合、別の様相を呈します。


話を聞く力がないと、人の意図を理解することができません。言葉の力が弱いと、思考力が育ちません。経験を知識に変える力がないと、何度も同じ失敗を繰り返します。


例えば、小さい子供に「食べ終わったらお皿をシンクに持って行ってね。」と指示をしたとします。子供の機能価値が高まっていないと、指示を出した方が余計な手間をかけることになります。


お皿を持っていこうとしたら途中でそれを落として割ってしまう。
お皿を持っていこうとする途中で他の物が気になってしまい、その場にお皿を置き忘れてしまう。
お皿を持って行くという指示を忘れてテーブルに置きっぱなしなる。
シンクに持って行ってくれたけれど、そこで何を思ったのか自分で洗おうとしてキッチンが水浸しになる。
シンクがどこか分からず、お皿がなぜかリビングのテレビ台の上に置いてある。


このようなことがあると、「自分がやった方が遥かに早い」と思います。そしてその時間を無駄にしたと思い、余計なストレスがかかるものです。


子育てにおいて、あえてそのような機会を作っているならまだしも、普段の生活の中で何でも子供たちの成長を待つことはできません。


でもこういったことも、機能価値が高い子が行うとスムーズにいくことがあります。


指示を出すのは一回。「お皿をシンクに片付けておいてね〜。パパは洗濯物を干しに行くからね。」

これを聞いて、この子供はさっと動きます。そしてシンクまで持って行って無事終了。

さらにすごい子になると、テーブルに散らかった食べこぼしなどを片付けたり、お皿洗いを行ったりします。

もし仮にうちで同じようなことが起これば、「ありがとう😊助かったよ〜」とハグものです。けれど滅多にそれは起こりません(笑)


機能価値が高い子がいると、感謝することが圧倒的に増えます。




ここまでは子供の具体例を出して書いてきましたが、これは何も子供の世界に限らず、大人も同じですよね。


いわゆる「仕事のできる人」というのは、機能価値が高い人です。これは当たり前のこととして捉えられますが、さらに言えば「本当に仕事のできる人」というのは存在価値も高くなります。


例が少し飛躍しますが、以前FCバルセロナにメッシという選手がいました(現・インテルマイアミ)。僕の中で、バルセロナが史上最強だと感じていたのが、2009年からの数年間です。

この頃バルセロナには、メッシのみならず、イニエスタやシャビ・エルナンデス(現バルセロナ監督)、セルヒオ・ブスケツなど名選手がキラ星の如くいました。

当時のメッシは、世界最高選手の称号であるバロンドールを何年も連続で獲得していました。


メッシは、生粋のドリブラーで、縦横無尽に駆け回り、相手をバンバン抜いていきます。その能力の高さに魅了されて、毎回ワクワクしながらゲームを観ていました。そしてバルセロナは、基本的にはメッシを頂点としてチーム作りをしていたように見えました。


メッシ主体のチーム作り。それを外部からは批判されることもありましたが、僕はそれが良かったと感じています。彼のお陰でバルセロナは当時世界最強のチームを作り上げていたからです。機能価値が存在価値を生み出す良い例です。


ところで、メッシがいなかったらチームが崩れたかというと実は全く違いました。


先程も記したように、当時のチームには世界最高峰の選手がたくさん所属していて、メッシがいなくても最強のチームであり続けました。そしてそれを支えていたのが、イニエスタ、シャビ、ブスケツといった中盤の選手たちです。


これらの選手たちは、存在価値が非常に高かったのです。当然、機能価値(サッカー選手としての能力)は非常に高いものがあったわけですが、僕が観ていて感じたのが、人間性も素晴らしいということでした。


簡単に言えば、上品で頭が良い選手が揃っていました。自分のサッカー能力をひけらかすようなことがなく、常にチームのためにどのように振る舞うのかを考えていたように思います。

プジョルというセンターバックの選手がキャプテンとなってチームを統率していましたが、このプジョルを中心にして、互いにリスペクトする雰囲気を感じることができました。


一人一人がゴールを狙える能力があるけれど、より確実にゴールを得るために、連動して動きます。当時のバルセロナのボール占有率(試合中のボール保持率)は、どの試合でも確実に7割を超えていました。それほどチームが成熟していたのです。


メッシがゲームに出ない時に、ゴール数が少なくなることはありましたが、負けることはほとんどありませんでした。それは他の選手の存在価値が非常に高かったからです。


社会的には、煌びやかな活躍をしていたメッシに注目が集まっていましたが、実のところそれを支えていたのは他の選手だったのです。そしてこの選手たちの機能価値も非常に高く、同時に存在価値もありました。



本当に仕事ができる人というのはこういうことではないでしょうか。



自分の能力や労力を、所属する共同体に対して惜しみなく提供できる人。これが最も存在価値のある人だと言えます。



だから自分の存在価値を高めたいと思うならば、まず

「機能価値を高める努力をすること」

それから

「その高めた能力を、共同体に貢献させること」

が必要になります。


機能価値の低い状態で存在価値を高めることは難しいし、機能価値が高くても、それを活用する意欲がなければ存在価値は高まりません。


故に僕の今回の結論です。


存在価値が高いと思われる人、つまりその共同体にとってなくてはならないと思われる人というのは、

「機能価値を高めながら、貢献できる人」

だということです。


僕が教育活動で子供たちに求めていることそのものです。


子供たちに伝え続けていることは、「勉強しなさい。そしてそれを人のために使いなさい。」ということです。何のために学ぶのか?と問われた時の、僕なりの解でもあります。


とにかく、機能価値を高めなければなりません。そうしないと、結局は誰かのために行動することもできなくなります。

他者貢献は幸せに繋がります。つまり存在価値を高めようとすることは、自分の幸せに直結しているのです。



僕が目指す平和な世界には、機能価値も存在価値も高い人が多く存在します。そしてそれは、自分らしく生きる中で育まれると考えます。


だからみんなが幸せを求めて、人と共に生きていくことを目指していくとよいのだと、僕は思います。



最後までお読みくださりありがとうございました。