いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
現代は多様性を認め合う社会だと言われています。僕はこの流れを好意的に受け止めつつ、変な方向に向かわないかと心配しているところもあります。
昭和後期から平成前期にかけて日本経済が低迷し、それまでのアッパーな雰囲気から、どこか悲壮感を漂わせる厭世的な雰囲気に落ち込んでいきました。平成30年間を「失われた30年」などと表現することがありますが、僕も正にそれを肌身で感じてきた世代です。
僕の印象でしかありませんが、昭和のアッパーな雰囲気や価値観をもった人たちが、バブルが崩壊した後もそのマインドを引きずったまま突っ走った結果が平成だったのではないかと思います。
これによって多くの人が苦しめられました。仕組みと人々のマインドに齟齬が起こっているにも関わらず、それに気づかずに走り続けた結果、日本人の自己肯定感が下がったり、ブラック企業が幅を利かせたり、自殺者が増えたりして、歪みが大きくなりました。
平成後期から令和にかけて、この流れに待ったをかける力が発動してきました。その中の1つに「多様性の尊重」があると僕は捉えています。
だから僕が好意的に受け止めているのは、時代の変換期に突入したことであったり、昭和の悪しきマインドセットの変化を推進する流れであったりの部分です。
ただ、この多様性を受け入れようとする方向が時々ズレていると感じることもあります。
現代は多様性を認め合う社会だと言われています。僕はこの流れを好意的に受け止めつつ、変な方向に向かわないかと心配しているところもあります。
昭和後期から平成前期にかけて日本経済が低迷し、それまでのアッパーな雰囲気から、どこか悲壮感を漂わせる厭世的な雰囲気に落ち込んでいきました。平成30年間を「失われた30年」などと表現することがありますが、僕も正にそれを肌身で感じてきた世代です。
僕の印象でしかありませんが、昭和のアッパーな雰囲気や価値観をもった人たちが、バブルが崩壊した後もそのマインドを引きずったまま突っ走った結果が平成だったのではないかと思います。
これによって多くの人が苦しめられました。仕組みと人々のマインドに齟齬が起こっているにも関わらず、それに気づかずに走り続けた結果、日本人の自己肯定感が下がったり、ブラック企業が幅を利かせたり、自殺者が増えたりして、歪みが大きくなりました。
平成後期から令和にかけて、この流れに待ったをかける力が発動してきました。その中の1つに「多様性の尊重」があると僕は捉えています。
だから僕が好意的に受け止めているのは、時代の変換期に突入したことであったり、昭和の悪しきマインドセットの変化を推進する流れであったりの部分です。
ただ、この多様性を受け入れようとする方向が時々ズレていると感じることもあります。
LGBTQの方への多様性尊重から、性転換手術への後悔、ゲイの人たちの美しさを競い合う世界大会などもその感覚のズレを感じるところです。
多様性が叫ばれるようになると、多様性を受け入れようとしない人への攻撃が行われます。「多様性を受け入れよ!」と多様性を認めたくない人へ押し迫る姿は、多様性を受け入れていない様相を呈しています。
多様性を受け入れるというと、何だか「美しくて、心地良い感覚」を持ちがちですが、僕はどうしてもそうは思えなかったのです。
そんな時、Voicyで佐々木俊尚さんが放送してくださった内容が、自分の中では「これだ!」と納得したものだったので、これをシェアしていこうと思います。
その放送は【2024.1.5 今年の「社会」で注目したいキーワードは?】の回で、Voicy社長の緒方さんと対談されたものです。
佐々木俊尚さんの放送は特に面白いので毎日聴いているのですが、この回は神回だと感じています。佐々木さんが他の人と対談するのも珍しいですし、30分近くになるものも珍しいです。それだけ佐々木さんの想いが詰まったものだと思っています。
この中で佐々木さんが挙げた三つは、「多様性・コミュニティ・愚行権」です。
放送をお聞きいただけると分かりますが、この三つは繋がっています。今日はコミュニティと愚行権については詳しく取り上げませんが、少しだけ触れていきます。
それでは多様性について、解説していきます。
佐々木さんの言葉の中で、非常に納得したものがあるので引用します。
「多様性の本質とは、みんなで仲良くすることではなくて、自分にとって不愉快で気持ち悪くて嫌なものでも、ある程度の距離をとって我慢すること」
もう、これに尽きる!と思いました。
生きていると、自分とは真逆とも思えるような価値観に出合います。その価値観に触れると、激しい怒りを感じたり、違和感を覚えたり、反感をもったり、動揺したりします。
僕はこういった価値観を、不快なものとして遠ざけてきました。できることならばそれに触れないようにして生きていきたいと。
けれどそういうわけにはいかないのです。どんなに遠ざけようとしても、受け入れ難い価値観に触れざるを得ない状況が出てくるものです。この時、「ある程度の距離をとって我慢すること」も出てきます。
ただ僕は、多様性を受け入れる必要はないと考えています。「受け入れる」という言葉には、「理解して納得してそれを活用する」といった意味合いを感じるからです。
けれど、僕は自分と違う人、価値観の違う人を自分事として考えなくてもよいのではないかと思います。なぜなら「不快なものは不快だから」です。
そこで、多様性を受け入れる以外の方法をとる必要があります。それが
「相互尊重」
という姿勢です。
尊重というものは「相手を理解し、なるほどと思う」形だと僕は考えています。
これだと、自分が不快に感じるものにも理解を示すことができます。
けれど「受け入れる」との明確な差は、「それを自分のものにする必要はない」という点です。
理解はするけど納得はしないよ、ということです。
例えば、スーパーに買い物に行った時に、必ずと言ってよいほど息子たちが、「あれが欲しい、これが欲しい」と言います。当然毎回買うわけにはいきません。
その時に、「この子には可能性があるわけだから、何でも言うことを聞いて、気持ちを満たしてあげよう。」なんてことを考える人がいます。
僕は子供たちがわがままになるのではないかと考え、ダメだと伝えます。多様性を「受け入れる」観点では僕のやり方は間違いです。
僕が行うことはただ一つ。
「そうだね〜。このおもちゃかっこいいもんね。欲しいよね。」
と共感するのみです。それでも尚のこと欲しいなどと言ってきたら、
「だからさ!買えないって言ってんじゃん!分かれよ!」
と怒ります。尊重の姿勢はどこいった?(笑)
僕の中で、相互尊重というものは堅いもののイメージがあります。理解や共感は示すけれど、さらに踏み込んで来る者に対しては、明確に線を引くのです。
その代わり、自分も相手を尊重するので、相手の線の中に入ってはならないと考えます。
これはアドラー心理学の「課題の分離」の考え方をしているわけなのですが、相互尊重には課題の分離は欠かせません。
線を引いて、それぞれの立場を守る。これでよいのかな、と。言葉にすると、受け入れるのではなく
「受け止める」
ということになります。
今回はかなり堅い言葉で文章を綴っています。もしかしたら「めんどくさいな」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、もう少しですのでお付き合いください。
前回のブログで、「努力は才能である。それが故に努力できない人たちもいる。この人たちをどうするのか?」といったことを書きました。ようやくここからそのことに触れていきます。
努力ができない人というのは、現代の社会においてはかなり厳しいところに位置することになります。まともに仕事もできないでしょうし、社会的信用も得られない可能性が高いです。
そうなった場合には、「誰かがその人たちを助けるような仕組み」が不可欠となります。本人が頑張れないのですから、周りがサポートをする必要が出てきます。
この時、サポートされる側というのは、サポートしてあげたいと思えるような顔をしていない場合があります。例えば、生活保護を受けている人が全てのお金をパチンコに注ぎ込んでしまったとか、子供の奨学金を使い込んでしまったなど、明らかに「自己責任」だと思うようなことをする人もいます。
しかし社会は、たとえこのような人であっても切り捨ててはならないのです。基本的人権の尊重とは、誰であっても人として生きる権利をもっているということです。
僕はこのことに対して、非常に不快な感情をもちます。なぜ自分の欲を勝手に満たしておきながら、困ったら助けなければならないのか?とずっと考えてきたからです。多様性を受け入れるということは、このような人と協力して生きていかなければならないわけです。
でも僕は、やっぱり納得はできません。僕自身はそういった人を助けようとは考えません。
愚行権を発動して自分の心身を傷つけたとしたら、それは自己責任です。ただし、そういう人も生きていかなければなりません。生きていくために必要なことは
「コミュニティで包摂する」
以外にないのかな、と思います。
例えば、会社や組織の中に、自分が不快に感じるような人がいますよね。
給料をもらってるのにまともに働かない人、仕事の邪魔をしてくる人、自分勝手な振る舞いをする人、何度同じことを説明しても同じ間違いを繰り返す人など。
もう本当に「いなくていいよ!」と思わず叫びたくなるような人がいます。
ただこういった人たちも社会の一員。その組織の中で包摂する必要があります。
その時、ガチでその人たちを助ける必要はないのかな、と考えています。不快なものは不快で、関わり合いにもなりたくないのだけど、「ちょっとだけシェアする感覚」で接すればよいのではないかと。
その人を変えよう、関わろうとすると、自分が多大なストレスを抱えるようになります。だから関わるのを1割くらいにするのです。そしてここが大事なのですが、「相手を攻撃しないようにする」のです。
相手のことを受け入れる必要はない。けれど受け止める努力はするということです。
その困った人の周りに10人の人がいたとして、その人たちが1割ずつ関われば10割になります。心の動きの話ですので、単純にこのようになるとは考えられませんが、これが相互尊重におけるちょっとずつ関わる理論(理論とかいってる笑)です。
一人の人がガッツリと付き合ったら、その人が潰れてしまう可能性があります。だから、みんなで少しずつのシェアにするのです。多様性を受け入れなくていいから、少しだけ気持ちを切り出すようにするといった感じです。
長くなりましたので、まとめに入ります。
佐々木さんが多様性の本質を語られた言葉の中で「ある程度の距離をとって我慢する」とおっしゃっています。これがコミュニティにおける重要な立ち位置になると僕は考えます。
積極的に関わらないし、攻撃もしない。ちょっとだけ気持ちを切り出して接しつつ、自分の領域に入ってこようとしたら拒絶する。それが誰とでも付き合うためのコツなのだと思うのです。
互いが互いを思いやって暮らしていければ、この世界はもっと平和になります。
多様性を受け入れなくてもよいのです。ただそういう人もいるのだと理解すればいい。尊重すればいい。
タイトルはかなり煽り気味のものでしたが、ここに僕の真意があります。あなたはどのように考えられますか?お考えを聞かせていただけると嬉しいです。
最後までお読みくださりありがとうございました。