努力とは才能だったのか | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


今日は、前回の記事と真逆のことを書くところがあります。ただ、バランスという点に関しては通じているので、1つの見方としてご了解いただけると嬉しいです。


尾石晴さんのVoicy【2024.1.5 努力できる人とできない人の差は何か?】から考えたことです。ちなみにこの放送はプレミアム放送(有料)なので、詳しいネタ提供は控えます。


ざっくり言うと、努力をできるというのは才能だということです。僕は努力というものを、全ての人ができるものだと考えてきましたが、実はそうではないということに気づきました。


この放送を聞いて、合点がいったことがいくつかあったので、そのことについて述べていきます。




世の中には、環境が悪いにも関わらず、尋常ではない努力によって大成した人がいます。

親がいない、貧乏、虐待されてきた、いじめられた、犯罪被害者になった、障害や病気がある等、恵まれた環境で過ごしてきた自分には想像できない世界があります。その中でも、それをバネにして飛び上がった人がいるものです。


そういった人たちは「偉人」として伝記になったり、様々なメディアで取り上げられたりします。


僕が、努力で大成した人を真っ先に思い浮かべるのは、大谷翔平さんです。環境が劣悪だったパターンの方ではありませんが、現役スポーツ選手の中でも突出して努力で大成された方だと考えています。


大谷さんの努力は称賛されて、あらゆる場面で活用されます。曼荼羅チャートは、自己啓発の典型的な資料とされています。


では、みんながみんな、大谷さんと同じような努力をすることはできるでしょうか?

僕には不可能です。

このような断定をすると

「いや、みんな諦めてはいけない。可能性は無限大なんだ。今からだって決して遅くはない。」

と訴える人が現れます。それはそれでよいのですが、僕の考えは違います。不可能なものは不可能なのです。


僕は大谷さんが大好きだし、尊敬しているし、憧れてもいるけれど、同じようにやろうとは1ミリも思いません。なぜなら「努力できるのも才能の1つだから」です。


晴さんの放送を聞いて、これがストンと腑に落ちました。


学校で教員として仕事をしていると、ついこのことを忘れがちになります。子供たちには、努力を要求していて、それができない子供にキツく当たってしまう自分がいるのです。

でもそれがそもそもの間違いでした。「僕程度」のできる努力ならば、誰にでもできると思い込んでいたのです。ところが、世の中には「僕程度の努力」ですらできない人がいることを忘れていたということです。



学校で子供たちと接していると、「なんでこんなことができないの?」と思うことがたくさん出てきます。

毎日同じ物を忘れる子供がいます。「いや、毎日忘れるんだから、なんか工夫せいよ!」と思います。

給食を極端に少なくしているのに、全部食べきれない子がいます。「いや、こんなの一口でパクリといけるやろ。食べようや!」と思います。

朝、8時20分までに教室に入るきまりになっているのですが、これにほぼ毎日遅れてくる子がいます。「いや、家出るのを5分早くするだけでええやん。何でそれができんの?」と思います。

朝教室に入ってきてから、片付けをして準備するのに10分以上かかる子がいます。「いや、来てすぐにランドセルの中のものを開けて、片付けるだけでなんでこんなに時間かかるん?」と思います。


僕は漢字練習の数を絞って宿題に出しています。「丁寧に、正確に一回だけ書く」ということを課しています。この宿題に集中して取り組めば、10分もかからず終えられるものです。それにも関わらず、「正確に」書けない子がめちゃくちゃ多いのです。「いや、何で見ながら書いているのに、正しく書けないん?」と思います。



僕にとって当たり前のことでも、できない子供たちがいるのが事実です。

僕はこれまでの人生で、これらのことを努力してできるようにしてきたのだと思います。それがいつの間にか自然となり、当たり前となり、僕の中の常識として成り立っています。


でも世の中には、自分にとって当たり前の努力をできない人がいるのです。これを腑に落としていかないと、独善的な思考が生まれることを身を持って体感しています。


おそらく僕は「努力ができる部類」にいます。それは教員だからとかではなく、様々なことに努力することができてきたからです。これは僕の才能だったのです。


だから自慢したいわけではありません。僕の方が優れているなどと言いたいわけでもありません。それは僕の性質だということを言いたいだけです。


どうして当たり前のことができない人がいるのでしょう?それはその人がそのような性質をもっているからです。

僕がどんなに努力しても、顔や体のバランスを考えて絵を描くことができないように、それぞれの人にとって頑張ってもできないことがあるわけです。さらに言えば、その努力すらもできない人がいるということです。


さてそうなった場合、この「努力できない部類」の人たちはどのようにして生きていくのでしょう?僕はこれまで明確に「自己責任」として切り捨ててきました。


しかしそれでは社会は成り立たないのだということを、尾石晴さんや佐々木俊尚さんのVoicyを聴いていると気づかされるのです。


努力できない部類の人、学ぶ意欲の低い人、怠け癖のある人、社会への貢献感の低い人、こういった人たちを包摂する社会にしていかなければならないようです。


なぜなら、「これらの人たちを切り捨てる社会は、自分が何かしらの理由で努力できない側に回った時に、同様に切り捨てられる社会だから」です。つまり無機質で、冷たく恐ろしい社会になってしまうからです。


前回の記事で、僕は苦手なことにも取り組み続けた方がよいことを書きました。ただこれはおそらく「努力ができる部類」の人たちに向けたものなのかな、と思いました。内容が全ての人に刺さるわけではありません。


僕が僕の発信を届けたいと思っているのは、「努力が才能になっている人たち」です。ここはこれまでもずっとそうでした。



これまでと少しだけ違うのは、努力が才能にない人を切り捨てる思考を控えようということです。それは自己責任ではないからです。


僕が目指す平和な世界には、努力したくてもできない人がいる。そのことを忘れないようにしなければなりません。その上で、努力できる人がもっと活躍できる社会を創っていく必要があります。


次回の記事は、この社会を創るための方法について書いてみたいと思います。


最後までお読みくださりありがとうございました。