小春日和日記

小春日和日記

日々の出来事や旅行記、趣味のメダカ、時事問題など。

前回、都知事選の話で、蓮舫さんが人気のない理由をずっと考えている、ということを書いた。

 

数日前、岡田斗司夫氏のyoutube動画を見ていたら、その疑問が氷解するような分析に出会った。

 

 

 

***9:55あたりから***

 

「これからは政治思想とか社会活動で正しい市民が政治家になるという形では、民意を反映できないと思っているんですよね。

あの、やりにくいと。

かつての民主主義、議会政治、投票形態というのは、日本国民がみんな市民であるという前提なんですよ。

でも今、日本国民というのは、市民ではなくて、消費者なんですよ。

民主主義社会の市民ではなくてですね、この消費社会の先端にいる消費者になっていて、消費者の民意っていうのをうまく拾う方法がわからない。

だから野党は負け続けているのは、今みんな市民じゃなくて消費者なんだと、だから政策を訴えたり政治家は汚いんです、悪です、だから私を当選させて、国会を正常化させてくださいというアピールが届かないのは、消費者に向かって企業の悪を訴えているのと同じだからですね。

違うんですよ。そうじゃなくて、クレームの中でも商品をよくするようなクレームの仕方をしないと、消費者にとって何のメリットもないというのがよくわかってないんですよね。

だから逆にワンイシューに特化したキャラクターっぽい人が政治家として有利じゃないかなぁと。」

 

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2年前の再配信動画であるにもかかわらず、今回の都知事選にぴたりと当てはまる。

 

蓮舫さんの正論は市民に向かって語る言葉で、しかし相対するのは市民ならぬ消費者であること、石丸さんが躍進したのは、消費者の喜ぶ商品パッケージを提供することに成功したからだろう。

 

 

ついでに、石丸さんに関して言えば、今回の石丸さんの予想外の得票数は、戦術に長けたベテラン選挙参謀たちが商品としての石丸さんを売り出すために尽力したおかげもあるみたいだ。

勝ち目のない候補者に古株の参謀がついた動機は何だったのだろう。

複雑な政治の世界。

 

 

私は石丸さんを好きではないけれど、選挙後のマスコミとの一連のやり取りを指して、彼だけが悪し様に言われるのもおかしな気がした。

選挙後、インタビューした側のマスコミと、された側の石丸さんとの会話がかみ合わなかったのを、マスコミは石丸さんのせいだと決めつけていたが、傍から見ているとインタビュー側の質問はかなり稚拙だったように見えた。

 

インタビューする側とされる側が、阿吽の呼吸や忖度をしあって即興の台本を作り上げ、からっぽの言葉のやり取りをする(まさに小池都知事の記者会見のように)。その阿吽の呼吸の世界認識に乗っかって何者でもない自分をえらそうに見せることに長けているコメンテーターやアナウンサーに対して、彼らの言葉がいかに空疎で意味のない言葉であるかということを無遠慮にさらけ出すところに石丸さんの真骨頂があり、そういうところが若者にウケているのかもしれない、と思った。

 

なあなあの世界の欺瞞をクールに暴く、というと一見革新的であるようにも見えるけれど、どうなんだろう?

彼の言うことには、正しげなところもある。けれど、根本的なところで何か私が信じるものとは違うところがあるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

明日の都知事選投票日前の覚書。


もし私が都民だったら、蓮舫さんに投票するのだが、どうやら多分小池さんが当選する模様である。

蓮舫さんを嫌いだと言う人が私の周りにも結構いるし、巷の調査でも蓮舫さんは女性に人気がないらしい。なぜだろう、とずっと考えている。


昼間に弟がやってきて都知事選の話になった。

「もし投票権があったら誰に入れる?」

と聞くと

「蓮舫以外だったら誰でも」


X(ツイッター)では、大企業と癒着しマスコミを操り経歴を詐称する現職に続投させるまじという激しい口撃が続く。

これは私が主にそういう方向性の人をフォローしているから、そういう情報に片寄って流れてくるだけ。

世間全般としては小池さん続投を妥当と考える人がが多数なのだ。その結果が明日明らかになる。


蓮舫さんを応援する勢力の中にはそれを、真実を報道しないマスコミのせいだと唱える人もいる。

しかし、真実とは何かという哲学的な問いは政治の力への抵抗にはならないということは、世界においても、ウクライナとロシアや、パレスチナとイスラエルや、トランプとバイデンなどを思い起こせば、明らかである。


マスコミがある候補者にとって不利になる報道をしないということ自体、社会の大勢が(多勢ではなく)政治的にそのある候補者を支持しているということにほかならず、それを非難することになんらかの意味があるのだろうかと思う。

政治的な敗者はしばしば敗因を特定の人物や企業の意思や陰謀に求めたがるが、実際はもっと得体の知れない空気や感覚だったりするんじゃないか。



私にとって自明の正義は必ずしも他人にとっての正義ではないし、社会にとっての正義でもない。







今回の北京行きの日記の最後に、「今回5年ぶりに中国を訪れ人々の様子が落ち着いているように感じたのは治安が良くなったからだ」という事を書こうと、下書きを半分くらい書いて数日放置していたら、蘇州の事件が起こったので、ちょっとそぐわなくなってしまった。

 

しかし私の感じたことは私の事実なので、とりあえず書きかけの部分に続けて書き進めることにする。

 

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今回の北京行きは入院した義母のお見舞いだったので、毎日午後の半日はほとんど病院にいた。

とはいえ、ずっと病室にいても私は何もできることがないので、ロビーや中庭でぼーっとしている時間が多かった。ずっと座っていても逆に腰が痛くなるので、散歩がてら周辺の市場を覗いたり、パン屋のイートインスペースでお茶を飲んだり。

 

病院のある場所は北京市の中心部から車で40~50分の所ですが、その地区全体の中心的な街となっていて、大変にぎわっていた。

 

コロナ前に外国人のビジネスマンや観光客が行き交っていた北京の中心部は、以前ほどの活気がなくなり、ビジネス街の外国人御用達のレストランなども寂しげな感じがしていたので、ああ、中国はやっぱり不景気なのだと、日本で言われていることが裏付けされたように思った。

しかし、中心部から車で40分離れた病院の周りを散策すると、道路も市場も食堂も店も公園も、どこも多くの人でにぎわい、物が溢れ、活気がある。

 

体力が劣った者には不便を感じる広い道路を雑多な人々と一緒に左右に注意を配りながら渡ったり、生の魚や肉がまるまんまどんっと置かれた市場の間を行ったり来たりしていると、人々の気質の変化を感じた。それは、名古屋から北京の飛行機の中で早々に感じていたのと同じものだった。


人々の態度が柔らかくなった。以前は社会の変化が目まぐるしく時間が不足していて、誰もが焦っていて、大声で叫び、他人が目に入らない。これは社会全体に対するイメージで、実際に具体的に出会う誰もがそんなふうだったというわけではない。あくまでイメージとして。

それが今回は、なんとなく各々が他人や周囲に対して自然に気を配っているような、社会全体が柔らかくなって、落ち着いていて余裕があるように感じた。

 

そこで、夫が、治安がとてもよくなっている、と言ったのを思い出し、これか、と思ったのだった。

監視カメラがそこかしこにあるので、自転車が盗まれても、犯人は家に帰りつく前に捕まるのだとも。それに現金を持ち歩かないので、スリや強盗が仕事を失ったと。

 

 

 

.......というふうに、治安の良さがもたらす社会の安定について書こうと思ったら、蘇州の事件のニュースが耳に入ったのだった。

 

 

簡単には書けなくなってしまった。

コロナを経て、管理や治安の強化がもたらしたのは、一方で安全と安定だが、また一方では経済の停滞と格差の拡大が怨嗟を生んでいる。

 

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今回、北京で食べたもので一番おいしかったもの、生のサーモン。新鮮で、贅沢な厚切り。普段ぺらぺらのサーモンしか食べてないから(^^ゞ。

さくらんぼも毎日食べた。大粒で甘い。市場でどさっと山盛りに積まれているのを、グラムで注文するのはなんと幸せなことか。(さくらんぼの写真がない。残念。)



 

いちばんおいしかった飲み物、病院の近くのパン屋のイートインで。



 

 これにておしまい。

 

 

 

 

Mrs green appleの曲「コロンブス」のMVが差別的だと炎上した件について、具体的にどこが良くないの?とひろゆきがXで呟き、逆張りだと話題になっていた。


 

 


おもしろいと思った。

明らかに差別的な内容だ、誰が見たってアウトだ、という勢力が圧倒的に強い中で、この発言。

ツイートには、まさかの逆張りだの、それくらいわからないのかだの、ダメな理由を懇々と説明してあげる返信だのが続々と続いている。

だけどよく読むと、ひろゆきは、

(コロンブスというタイトルじゃなかったら)「具体的にどこが良くないという話なのだろう?」

と問題提起しているけど、悪くないとの擁護もしてもいない。

コロンブスだから悪いのだと、何も考えず鸚鵡のように付和雷同するムーブメントを指摘しているんだ。


私は初め「コロンブス」というMVが問題になっているという話を知った時、MVは皮肉か風刺で作ったんじゃないかと思った。でも実際の映像を見たら、ああ、これは当然まずいよね、コロンブスじゃなくたって西洋的な文明の驕りや傲慢さが表れていて、どっちの立場から見ても失礼だと。


そう、コロンブスじゃなくても、全体の構図が無邪気に稚拙なのだと思った。しかし世間では「コロンブス」の歴史的評価の方が注目され、コロンブスそのものが悪なのだと騒ぎ立てている。

新大陸を発見した人物として教科書で習った日本人としてコロンブスが悪人だなんてみんな本当に心から思えるのだろうか?

日本人の身の内に根付いているわけでもないところで、表層の潮流に乗っかって言葉遊びをしている。ひろゆきが「社会正義ごっこ」と評しているのはわかるような気がする。


一石を投じたひろゆきの言葉が、おもしろいなぁと思った。


私は今までこの人に好感を持っていなかったのだけれど、最近ある動画がきっかけで、計算づくで言葉を自在に繰り出す賢い人なのだと見方が変わった。

なのでこの件も文字通りではないのでは?と思った次第。





さて、前回の続き。

 

銀行での交渉ごとがあった2日後の夜、夫と、ホテルの1階にあるレストランへ行った。

レストランの入り口の前にホールのような空間があって、そこを入口に向かって歩いていると、突然体ががくっと崩れ落ちた。

一瞬何が起こったのかわからなかった。

ぴかぴかに磨かれたまっ平な床を普通に歩いていたつもりなのに、踏み出した足が宙を切った。3段ほどの階段があって床が下がっていたのに全く気が付かなかったのだ。階段の手前も向こう側の床も同じ材質、同じ色で、段差の角度も急なので、遠目にはずっと平らな床に見える。近くまでこなければそこに段差があることに全く気づかない。

 

夫は、後になって「注意して、階段がある、と言ったのに。」と言った。

確かに、倒れる瞬間の数秒前、夫が何か言ったのは耳に入っていた。

でも何を言ったか、言葉として頭で理解していなかった。

 

レストランの店員が2人駆け寄ってきて、床に倒れている私に声を掛ける。

「大丈夫ですか。」

チャイナドレスを着たスタイルのいい美しい女性たちだ。

「すぐに動かない方がいいから、起きないでじっとしていて。」

美しく優しい声、すごくありがたかった。

肉体的な痛みはもちろん、何が起きたのかショックを受け止めきれなかった私は冷たい床にしばらく横たわっていた。

 

幸いなことに、腰に腰痛用のコルセットをはめていたので、足を踏み外した時、腰をひねらずまっすぐに倒れこむことができた。前の日コルセットが苦しいのではずしていたら、夫に「しておいたほうがいい。」と言われ、この日は着用していたのだ。

おかげで、膝から腿のあたりを多少打っただけで済んだ。

しばらくしたら痛みも引いた。

 

実は、夫が1年ほど前にここに来た時も、一緒にいた友人が同じ場所で、同じように足を踏み外して倒れたのだと言う。

レストランのテーブルについてから、夫が店長にそう説明する。

だから1年前にも注意を促した、なのに何の対策もとられていないじゃないか、と。

 

夫が私に言うには、あそこではしょっちゅう誰かが足を踏み外してるはずだ、だから店員も入口で注意して見ていたに違いない。

そうかもしれない。入口からは数メートル離れているし、間には装飾品もあって見通しが悪いにもかかわらず、チャイナドレスの美しい女性たちは、私が倒れてほとんど間を置かずに駆け寄ってきたし、掛ける言葉も慣れている感じであった。

 

責任者の謝罪があり、幸い体は大丈夫のようだし、そこで話は終わったと思っていた。

そしたら食事後に、ホテルの制服を着た3人の女性がさらに謝罪に現れた。

 

私は中国語は全部は聞き取れていないので、夫が呼んだのかレストランの店長が呼んだのかはわからない。

支配人と思われる女性は(やはり女性だ、中国は女性の地位が高いとつくづく思う。)、とても親身に私の体を心配してくれた。

ホテルの箱入りの高級アメニティーまでいただいた。

 

夫と店長や支配人との一連のやり取りの中で、銀行での出来事と同じく「投訴」というキーワードが出ていたのが印象に残った。ただ、銀行の時とレストランの時と「投訴」する先の名称を変えていたので、これは中国の組織の仕組みをよく知っていないと使えない言葉かもしれないと思う。

 

 

銀行での出来事といい、こういうやりとりは、時間を食うよね、と私は夫に言う。

 

しばしばあるこのような夫の対応を見ていて、銀行はこちらの利害があるから引き下がるわけにはいかなかったけれど、こんなにとことんやらなくてもいいんじゃない?と思う時がある。

クレームをつけることでそのやりとりに逆にこちらの時間と労力が消耗されて、損をするような気がする。

 

すると夫は、そうしないと社会が改善されないと言う。

まあ、そうかもしれないけど。

 

レストランでの件も、1年前のことがなかったらここまで強くは言わない。改善されてなかったから言ったんだ、と。

 

レストランの店長は、

あそこを通るのはレストランの客がほとんどだが、あのフロア自体はホテルの管理なので、ずっと前からホテルに改善を頼んでいるが、なかなか対策をしてくれない、ホテルに直接強く言ってくれるとありがたい、

と言っていたそうだ。

 

 

 

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最近、日本では「カスハラ」とかいう言葉がマスコミで流布されていて、確かに客は神様じゃないけれど、客を責めるより理不尽な客にどう対応するかのノウハウを考える方が、日本のサービス業の質をさらにアップすることになるんじゃないかなぁ、と思ったりする。

これは蛇足。