雑話41「印象派のゆりかご・・・アルジャントゥイユ」
普仏戦争、その後の革命政府コミューンの抵抗と戦争が続いた結果、パリの街は激しく破壊され、もはや、ナポレオン3世が作った美しい都市ではありませんでした。
コミューンにより倒されたヴァンドーム広場のコラム(円柱)
そこで、モネをはじめ印象派の画家達はパリを離れ、その近郊に絵の題材を求めました。
アルジャントゥイユ(Argenteuil)はパリの北西約10kmに位置する、ワインと漆喰そしてアスパラガスが有名な田舎町でした。
急激な産業化が進んでいた19世紀のパリでは地方の労働力を集めて人口は倍増し、1840年頃には200万人を突破していました。
そんな仕事に明け暮れる人々が日曜日に訪れたのが、パリ西郊のセーヌ河畔でした。
ギュスターヴ・カイユボット「アルジャントゥユのボートハウス」1883年
なかでも、アルジャントゥイユはレガッタの盛んな人気スポットでした。
セーヌ河畔にやってきた人々は、陽光の下、草の上で昼寝をしたり、水浴をしたりして、思い思いの休日を楽しんだのでした。
エドゥアール・マネ「アルジャントゥイユ」1874年
そんなアルジャントゥイユに1年中住んでいた印象派の画家はモネ一人でしたが、近くに土地を持っていたマネとカイユボット、そしてルノワールとシスレーも制作のために頻繁にやってきました。
しかし、産業化の波はアルジャントゥイユにも容赦なく押し寄せ、1876年頃になると町の開発も進み、もはや牧歌的とは言えなくなってきました。
クロード・モネ「アルジャントゥイユ、花咲く河岸」1877年
そして、6年以上も過ごし、数々の作品を生み出したモネも1878年にはついにアルジャントゥイユを去り、パリに仮住まいした後、セーヌ河のさらに下流にある静かな小村ヴェトゥユに移っていったのでした。
ちなみに、モネの家と言えば、彼の代名詞とも言える蓮池のあるジベルニーが有名ですが、アルジャントゥーイユにもかつてモネが暮らした家が残っています。


