絵画BLOG-フランス印象派 知得雑話 -236ページ目

雑話42「マネとモネ・・・どっちがどっち?」

マネとモネ、学生時代の美術の教科書で見た二人の画家を混同された方は多いのではないでしょうか?


この二人は名前が1字違いでよく似ているだけでなく、同時期に同じパリで活動していましたから、間違いやすいのは無理もありません。


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エドゥアール・マネ「オランピア」 1863年


しかし、これは何も歴史として学ぶ我々に限らず、彼らのデビュー当時から状況は同じでした。


ある年、マネがサロンの開会日に自らの作品が展示されている部屋に入ると、身に覚えのない作品について知人から賞賛されて驚きました。


それは知人がモネの作品をマネの作品と勘違いしたためでしたが、二人の作品は同じ部屋で展示されていたのでした。


しかも、マネは最初モネのことを自分を利用して有名になろうとする不届きものだと思ったそうです。


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クロード・モネ「カミーユ、緑衣の女性」 1866年


また、モネが後に妻となるカミーユをモデルに描いた「カミーユ、緑衣の女性」がサロンに入選しましたが、「ラ・リュース」という雑誌がその絵の戯画を載せました。


そのキャプションには「モネかマネか?モネだ。しかし、マネのお陰でモネがあるのだ。モネよ、おめでとう。マネよ、ありがとう」とあり、まるで新人のモネが有名なマネと名前が似ているので入選したかのように皮肉られています。


さて、実際にはマネはモネより年齢的に8歳年上というだけでなく、上記の通り、モネが新人であった1866年には既に有名になっていて、画業においても先輩でした。


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エドゥアール・マネ「草上の昼食」1863年


また、マネはモネがリーダーと考えられている印象派のグループに入れられることもありますが、彼の技法やコンセプトを考えるとマネの絵はクールベのレアリスムと印象派の中間に位置すると考えたほうが自然であり、印象派というよりは印象派の兄貴分的な存在です。


マネのモネに対する最初の印象こそ悪いものでしたが、その後マネはモネの実力を認め、二人の交流が始まりました。


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マネの墓


マネは結局、印象派展には一度も出品しませんでしたが、二人の交流はマネが亡くなるまで続き、1883年にマネの訃報を聞いたモネは、ジヴェルニーに引っ越したばかりでしたが、全てを投げ出してパリに駆けつけたそうです。