雑話77「モネの大家族」
ピカソやゴーギャンのように、モネは恋多き芸術家ではありませんでしたが、結果的に2人の伴侶と8人の子供を持つこととなりました。
最初の妻、カミーユはモデルとして初期の作品の多くに登場しています。
クロード・モネ「パラソルを持つ婦人」1875年
※モデルはカミーユ夫人と長男のジャン
モネが画家として成功する前に長男のジャンが生まれており、モネとカミーユは金銭的にかなり苦労したようです。
それでも、アルジャントゥイユに移った1870年頃から徐々に作品が認められるようになり、モネとカミーユは女中と乳母と庭師つきの快適で広い家で、郊外のブルジョワ生活を送るようになっていました。
その頃にできたパトロンの一人に、エルネスト・オシュデがいました。
エルネスト・オシュデは莫大な財産家であり、当時のパリの買い物の様相を一変しつつあった新興の大百貨店の一つの持ち主でした。
ロッタンブール城の絵葉書
オシュデは自らが所有するモンジュロンのロッタンブール城の室内装飾画をモネに注文しました。
クロード・モネ「七面鳥」1876年
※オシュデ氏注文の室内装飾画の一つ
モネは作品を描くために何度もにモンジュロンを訪れ、エルネストとその妻アリスと親密な友人になりました。
そんな順風満帆なモネに逆風が吹き始めます。妻のカミーユは2度目の妊娠で体調を崩すと、2人目の子供であるミシェルを生んだ後は常時寝たきりという状態が続きました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール「フィガロ誌を読むモネ婦人」1872年
その上、フランスの景気が下がり、美術市場も急激に落ち込むと、モネは多額の借金を抱え込んでしまいます。
そこで、モネは近代化が進み絵の題材も少なくなったアルジャントゥイユを離れ、セーヌ河のさらに下流にある静かな小村ヴェトゥイユに引っ越します。
ヴェトゥイユはまだそれほど近代化が進んでおらず、人々の生活は貧しい分、生活費も安くてすみました。
クロード・モネ「ヴェトゥイユ」1879年
モネはそこにかなり大きな家を借りましたが、なぜならパトロンであったオシュデ一家がそこに加わったからです。
実はエルネスト・オシュデは会社の経営にはあまり熱心でなく、会社の状況が思わしくないにもかかわらず絵を買い続けた結果、破産してしまったのです。エルネストは自殺に失敗した後、国外に単身で逃亡してしまいました。
妻のアリスは一時的に実家に身を寄せましたが、もともとエルネストとの結婚に反対だった実家での居心地は悪く、早々にパリに戻ってきて、モネ一家と一緒にヴェトゥイユに移ることになったのです。
クロード・モネ「ヴェトゥイユの画家の庭」1881年
※画中の人物はミシェル・モネとジャン=ピエール・オシュデ、その後ろはアリスではなく乳母か女中と言われています
こうして3人の大人とひ弱な赤ん坊を含む8人の子供が一つ屋根に下で暮らすことになり、その生活はいまや売れない芸術家となったモネの双肩にのしかかったのです。
現金が必要だったモネは次から次へと急いで描いていきました。当時モネの作品は1点38フランまで下がっていたのに、食料品店のつけが3000フランを越えることもあったようです。
長い闘病生活の末、カミーユは翌年の9月に亡くなります。アリスはカミーユの世話をしており、最後の儀式がきちんと行われるように取り計らいました。
クロード・モネ「死の床のカミーユ」1879年
カミーユの死後、モネとアリスのあいまいな関係が醜聞の種になり、モネの作品が批評される時にその事がほのめかされるようになりました。
そのことで夫から非難されたアリスはモネと運命を共にする決意を固めました。
アリスはすぐにモネのよき伴侶として認められましたが、エルネストがなくなる1891年まで結婚はしませんでした。
クロード・モネ「戸外人物習作・右向き」1886年
※画中の女性はモネ一番のお気に入りのモデルだったシュザンヌ・オシュデ
こうして出来たモネの大家族は、アリスを中心に献身的にモネの画業を支え、強い結束力が生まれたようです。最期の地となったジヴェルニーには、成人しても残った家族のメンバーにその家族が加わり、さらに大きな家族となりました。
モネ一家の写真
画家という不安定な職業にもかかわらず、自らの家族を抱えて余裕がない中で、元パトロンの妻と6人もの子供を引き取って面倒を見ようとしたモネ。
彼には自らの芸術に対するかなりの自信と、愛するものに対する強い責任感があったに違いありません。