雑話113「ピカソとシャガール」
ピカソとシャガールはともに20世紀を代表する画家ですが、二人の仲はあまりよくなかったようです。
ピカソとシャガール
6歳年上のピカソは、シャガールがはじめてパリに出てきた1910年にはすでに、芸術家コロニーの一方であるモンマルトルで王として君臨していました。
シャガールはロシアにいる頃からピカソのことを知っていましたが、ピカソとのつき合いが始まるのはずっと先の1936年まで待たねばなりませんでした。
マルク・シャガール「7本指の自画像」1913年
※この頃はまだピカソとのつき合いはありませんでしたが、キュビスムの影響を受けて画家の姿は四角い面に分割されています
それまでも二人は美術編集者のゼルヴォスのところで何度も出会っていましたが、けっして親しい間柄にはなりませんでした。
しかし、1936年に起こったスペイン内戦に心を痛めたピカソとシャガールは、連絡を取り合うようになり、第2次世界大戦が勃発するまでは接触を保っていました。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」1937年
※スペイン内戦での都市無差別空爆に抗議する意図で描かれ、反戦のシンボルとなりました
大戦終了後、戦争を避けてアメリカに亡命したシャガールがフランスに帰ってからは、両者の接触は稀になり、決定的な最後を迎えます。
シャガールは帰仏して住んだリヴィエラで、陶器に関心を寄せ、アンティーヴ、ヴァンス、ゴルフ・ジュアンの窯で経験を積み、ヴァローリスにあるマドゥラの工房で陶器作りを始めました。
それは、その数年前から陶芸に取り組み、陶芸を自分だけの領域だと考えていたピカソにとって、許しがたい行為でした。訪ねてきたシャガールに対して、ピカソは露骨にそれを顔に出したので、シャガールは来なくなってしまいました。
それでも、その約1年後に美術編集者のテリアードに昼食に招待されたピカソは、そこでシャガールに再会します。
シャガールとヴァージニア・ハガード
その時シャガールはつき合っていたヴァージニアを連れてきていました。ヴァージニアは背が高く、ピカソが驚くほど痩せていました。しかも、神知論者である彼女は肉だけでなく、食卓にあった4分の3の料理はその主義から食べられないようでした。
それを見たピカソはうんざりしてすっかり食べる気をなくしてしまいました。さらに、当時つき合っていたフランソワーズもその時かなり痩せており、骨と皮ばかりの女性に囲まれたピカソはすっかり気分を害してしまいました。
ピカソとフランソワーズ・ジロー
不機嫌になったピカソは、その矛先をシャガールに向けたのです。
「親愛なる友よ、忠実で、献身的ですらあるロシア人の君が、なぜ祖国に足を踏み入れようとしないのか、僕にはわからない。他のところならどこへでも行くじゃないか?アメリカにすら行ったのだから、もう少し先まで行って、長い間留守にした祖国の現状を見てきたらどうかな?」
しかし、シャガールには、ロシア革命の新体制のもとで美術担当人民委員を務めましたが、最後には居場所がなくなった上に、貧窮を極め、ロシアから命からがら逃げ出してきたという苦い過去があり、自国に帰りたいという希望などありませんでした。
そこで、シャガールはゆったり微笑んでいいました。「親愛なるパブロ、どうぞお先に。あなたはロシアでとても愛されているようです。もっとも、(あなたの)絵が愛されているのではありませんが。あなたが先にいらして、しばらくそこで生活されたなら、私も出かける気になるかもしれません。あなたの様子を見てからにしましょう。」
すると、ピカソは悪意をこめてこう言いました。
「君の場合は、ビジネスなんだろ?あそこでは金は儲からないからね。」
この言葉によって、その場で二人の友情は終わりを告げました。この日以来、ピカソとシャガールは二度と顔を合わすことはありませんでした。
それでも、ピカソもシャガールもお互いの芸術には一目おいていたようです。
ピカソはシャガールについて「色彩が本当にどういうものなのかを理解している画家は、マティスが死んだら、シャガールしかいないだろう。」といっています。
また、シャガールもピカソについて「なんとすばらしい天才だ、ピカソは。ただ、絵を描かないのは残念だ。」と皮肉交じりですが、その才能を認めています。




