雑話120「印象派の敵役?・・・アカデミーとサロン」
近代フランス美術界において、唯一の公的展覧会であった「サロン」は、当時の芸術家の評価に絶大な影響力を持っていました。
ピエトロ・アントニオ・マルティニ「ルーヴルのサロン」1787年
その「サロン」の審査を行っていたのが、フランス王立絵画・彫刻アカデミーの会員でしたが、保守的な彼らと徹底的に対立したのが印象派や彼らの兄貴分であったマネなどの前衛美術の画家たちでした。
今では印象派の敵役として、また忘れられた芸術家イメージばかりが目立つアカデミーですが、それはその成り立ちからして無理もなかったかもしれません。
優れた芸術家を育て保護するために1648年に設立されたアカデミーは、古典主義の美を理想にかかげ、絵画の種類による上下関係などさまざまな理論や規則を定めました。
オノレ・ドーミエ「今年もまたヴィーナス・・・いつもヴィーナス!」1864年
ちなみに、彼らの絵画の種類による上下関係では、神話や歴史を題材とする作品が頂点とされ、静物画や風景画は低級な題材としてほとんど評価されませんでした。
さて、「サロン」の元となったのが、1667年にルーヴル宮殿の一室で開かれた、アカデミー会員の作品による展覧会であり、その場所が「サロン・カレ」という名前だったことから、公式の展覧会は一般に「サロン」と呼ばれるようになりました。
フランス革命が起こり、この「サロン」がアカデミー会員以外にも開かれると、出品者は急速に増えていきました。
そして、印象派が活躍した19世紀では、「サロン」は画家が成功するための場所となっていたのです。
ウィリアム=アドルフ・ブーグロー「春の回帰」1886年頃
※印象派と対立していたアカデミーの代表格
印象派の画家たちは、アカデミーの保守的な理論や規則が気に入らず、彼らを否定するような作品を描いていたわけですから、そんな彼らが「サロン」の入選作として印象派の作品を選ぶはずもありません。
ある意味、アカデミーと前衛画家との戦いは避けられないものだったのでしょう。しかし、もしアカデミー派の画家たちが新しい価値観を受け入れていたならば、アカデミーや「サロン」も違った未来が待っていたかもしれませんね。


