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労働組合

1946年のこの日、労働者の地位向上をはかるために労働組合法が施行され、それを記念して設けられた。

信濃の国 解説

第三章節と一転して「弱起モデラート」調子で歌う第四章節に続いての第五章節は調子を戻して歌う,信濃の文武の偉人の紹介である。
木曾義仲は巴御前と武勇で知られる。倶利伽藍峠で牛を使って平家を最初に破った事は著名。墓が木曾の福島にある。信濃は戦国時代甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の角逐の地で後世に名を残す武人が乏しい。真田幸村であっても良かった筈だが。仁科五郎信盛(盛信の誤り)は,武田信玄の五男で、兄武田勝頼の命により高遠城に詰め、天正10(1582)年織田信長に滅ぼされた最後の仁科(今の大町)城主である。
太宰春台は飯田出身の江戸の経済家者。佐久間象山は松代出身の開国の思想家。ともに幕末に活躍した。

ちょとお仕事②(03月度)

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第五章節

旭将軍 義仲も 仁科の五郎 信盛も
春台 太宰先生も 象山 佐久間先生も
皆此の国の 人にして 文武の誉 たぐいなく
山と聳えて 世に仰ぎ 川と流れて 名は尽ず

ちょとお仕事①(03月度)

そりゃ辛いでしょう。でも頑張りま~しゅ

信濃の国

信濃の国の歌を使って信州信濃を解説する。県歌「信濃の国」は,明治32(1899)年長野師範の教師浅井洌(あさい きよし)作詞・依田作曲・後に北村季晴(きたむら すえはる) 編曲で、内容はお国自慢の歌であるが、山に隔てられ、バラバラになりがちな県民の心を一つにする役割もあった。今でも県民が集まる所で歌われている。この歌には,長野県の地理、産物,名所,偉人、など、信濃の国と呼ばれた信州の特徴、概要が歌い込まれていて,今では大分古いが、信州を紹介するのに相応しい。

ちょとマネ-かい④(03月度)

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佐久間象山:生涯③

教育にも情熱を傾け、多くの弟子を育成した。一方でその性格のために、多くの敵も作っていた。
嘉永6年(1853年)、アメリカ海軍のペリーが来航、開国を迫った。象山は視察に浦賀まで訪れている。ところが翌年、再び来航したペリーの艦隊に弟子の吉田松陰が密航を企て、失敗。象山も事件に連座して、一時伝馬町へ入獄する羽目となった。
元治元年(1864年)、幕府後見職一橋慶喜に招かれて入洛、公武合体論、開国論を説いた。 しかし、尊皇攘夷思想うずまく当時の京都に赴くことは、開国派・西洋かぶれという印象を広くもたれている象山にはあまりに危険な行動であった。さらにその京都を移動する際、ろくに供も連れなかった。
同年7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎らにより暗殺された。明らかに自信過剰が引き起こした事故であり、禁門の変の7日前のできごとであった。現在、現場には遭難碑が建てられている。 その後河上彦斎は象山の事歴を知ると、あまりに大物を殺害してしまったことに愕然とし、人斬りと名高かった彼が暗殺をやめてしまったという。
門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいる。 なかでも吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎は「象門の二虎」と称され「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と語った。 なお、象山の後妻は、勝の妹順子である。ただし子はない。

ちょとマネ-かい③(03月度)

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佐久間象山:生涯②

これが大きな契機となって、象山は兵学のみならず、西洋の学問・歴史そのものに大きな関心を抱くようになった。 特にピョートル大帝とナポレオンの優れた業績に感嘆し、その手法を日本でいかに取り入れるか模索した。
また、高島秋帆や江川の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功、名を大きく高めた。さらに多くの事業を手がけ、ガラスの製造を行い、牛痘種の導入を企図するなどし、いつしか押しも押されぬ洋学の第一人者として高く評価されるようになった。 さらに嘉永2年(1849年)には、故郷松代で日本初の電信実験を成功させている。また日本で初となる地震予知器を完成させたのも彼である。この地震予知器は安政江戸地震を機に大地震を予知する装置として開発し、大地震の予兆について人々から聞いた話を元に作られた道具で磁石の先端に火薬が付けられ、その火薬が落ちると大地震が来ると言われている。ちなみに科学的根拠は皆無とされている。
ペリーが日本来航の際、電信機を持ち込んだが、象山はその4年も前にその実物を書物を駆使して完成させたということである。