佐久間象山:生涯③
教育にも情熱を傾け、多くの弟子を育成した。一方でその性格のために、多くの敵も作っていた。
嘉永6年(1853年)、アメリカ海軍のペリーが来航、開国を迫った。象山は視察に浦賀まで訪れている。ところが翌年、再び来航したペリーの艦隊に弟子の吉田松陰が密航を企て、失敗。象山も事件に連座して、一時伝馬町へ入獄する羽目となった。
元治元年(1864年)、幕府後見職一橋慶喜に招かれて入洛、公武合体論、開国論を説いた。 しかし、尊皇攘夷思想うずまく当時の京都に赴くことは、開国派・西洋かぶれという印象を広くもたれている象山にはあまりに 危険な行動であった。さらにその京都を移動する際、ろくに供も連れなかった。
同年7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎らにより暗殺された。明らかに自信過剰が引き起こした事故であり、禁門の変の7日前のできごとであった。現在、現場には遭難碑が建てられている。 その後河上彦斎は象山の事歴を知ると、あまりに大物を殺害してしまったことに愕然とし、人斬りと名高かった彼が暗殺をやめてしまったという。
門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいる。 なかでも吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎は「象門の二虎」と称され「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と語った。 なお、象山の後妻は、勝の妹順子である。ただし子はない。
嘉永6年(1853年)、アメリカ海軍のペリーが来航、開国を迫った。象山は視察に浦賀まで訪れている。ところが翌年、再び来航したペリーの艦隊に弟子の吉田松陰が密航を企て、失敗。象山も事件に連座して、一時伝馬町へ入獄する羽目となった。
元治元年(1864年)、幕府後見職一橋慶喜に招かれて入洛、公武合体論、開国論を説いた。 しかし、尊皇攘夷思想うずまく当時の京都に赴くことは、開国派・西洋かぶれという印象を広くもたれている象山にはあまりに 危険な行動であった。さらにその京都を移動する際、ろくに供も連れなかった。
同年7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎らにより暗殺された。明らかに自信過剰が引き起こした事故であり、禁門の変の7日前のできごとであった。現在、現場には遭難碑が建てられている。 その後河上彦斎は象山の事歴を知ると、あまりに大物を殺害してしまったことに愕然とし、人斬りと名高かった彼が暗殺をやめてしまったという。
門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいる。 なかでも吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎は「象門の二虎」と称され「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と語った。 なお、象山の後妻は、勝の妹順子である。ただし子はない。