幻想的な絵画や文学の世界を彷徨っていると、必ず行き着いてしまうのが、澁澤龍彦の世界。
私的には、大正時代から昭和初期に生まれた人物にとても興味がある。
史実と歴史の狭間に居座ることが出来る、ほんのつかの間の時間。
それは歴史上の誰にとっても一度きりの貴重な時期だけに、いっそう輝きを増すような気がしてならない。
なぜならば、彼らが物故してから、程よい時間が流れたということだろうか。。。
暗い藏の中で眠っていた芳醇なワインのように。
澁澤龍彦の世界は、若い頃から何度も遠目で眺めていた^^;。
フランス文学の素養がないといけないような気もしたし、
なによりも、マルキ・ド・サド文学研究の第一人者、エロスの巨匠(?)として、うら若き乙女にとっては、禁断の扉だったのだ^^;。
もうそろそろいいだろう。(笑)
時期的には、澁澤文学に触れるのは、学生時代だったという人も多いと思うけれど、私的には澁澤文学に丁度よい年代になったと自分では思っている。
案の定、あまり余計なあれやこれやを動揺したり妄想せずに、冷静に読める年代になっていた。(笑)
本書は、人間の本能である「性・性欲」から生まれたエロティシズムというものを観念的に文学的に解釈したもの。
どのような性の倒錯を説明しようが、澁澤龍彦の手にかかると、下半身は置いてきぼりで、性の問題もなにやら高尚な学問に聞こえてしまうから凄い。(笑)
しかし、現代に生きる私たち女性にとっては、やはり聞き捨てならない言葉もある。
<男の子は力強い運動を示す自分のペニスに誇りをいだくが、女の子は、自分にペニスがないことに劣等感をいだく。そして思春期に達すると、いつもじめじめ湿っていて、汚れた血を流す自分の性器に、深い恥辱を味わわなければならない。>
読んで、あ然と失望した。
フロイト式の精神分析は、澁澤が生きていた時代にだって、すでにその論理の「欠陥」は常識とされていたし、ペニスコンプレックス云々は別としても、女性であることに深い恥辱や劣等感を意識して生きる女の子が存在するものだろうか。
そして、女のエロティシズムの分類として
1.男を支配する形式
2.男に支配される形式
3.男と同等になろうとする形式
の3つを挙げている。
これはつまり、
1.サディズム
2.マゾヒズム
3.レズビアン
ということか。(汗)
つまり、私たち女性には、この3つ以外に当て嵌まるエロティシズムは無いようだ。(苦笑)
当然のことながら、澁澤は、あとがきで苦しい言い訳をしている。
当時の自分(澁澤)は、フロイトやサルトルやバタイユに影響されていたせいだとし、
<いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。(略)これらの点は多めに見ていただきたいと思う。>
(註:本書の初版は昭和42年。あとがきは昭和59年である。)
前衛的でリベラルな印象の澁澤龍彦も、やはり昭和のヒトケタ世代なのだなあ。と可笑しくもあり、愛らしくもあり。(苦笑)
などと苦笑で済んでしまうのも、「古き良き時代」の魅力ゆえか。。。
私も甘いな。
☆☆☆






















