子どもたちの心はそう簡単には開かない | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

重い荷物を背負ってしまった。

31日のビヨンドXプロジェクト事業の打ち合わせ会の前に被災地の現状を肌で知っておきたいと思って急遽石巻へ向かった。
仙台から仙石線で松島海岸まで行き、そこでJRの代行バスに乗り換え矢本まで行った。
途中車窓から野蒜の現状を確認。
未だ津波で被災した建物の撤去が行われていないところがあちこちに見られた。
野蒜駅の前の代行バスの乗り場のところで仙石線の早期再開を訴える旗が風で激しくはためいていたのが印象的だった。

矢本から石巻までは再び仙石線に乗る。
石巻が宮城県の第2の賑わいを誇っていた街であったことが仙石線の車窓に映る家並みから分かる。

石巻の漫画ロードの商店街はまだ2、3割ぐらいしか戻ってきていない感じだった。
一時期の瓦礫の山はさすがに片付いていたが、津波で1階部分が目茶目茶に壊された家屋がまだ取り壊しもされず、そのまま放置されていた。

ああ、まだか。これからだなあ、とは思うが、活気が失せたという訳ではない。
石巻には若い人が多い。
地元の高校が甲子園出場を決めたことを祝う大きな垂れ幕が石巻駅の駅舎に架けられていたから、何とか地元を皆で盛り立てて行こうという気持ちは伝わってくる。

これまでは石巻どまりであった。
石巻から先にはなかなか行く時間が取れなかった。

しかし、行ってみたい。
行かなければ、本当のことは分からない。
行ってみよう。

そう決心して、石巻から女川行のJRの代行バスに乗り込んだ。

石巻大橋を渡った女川町は、リアス式海岸の恩恵を受けて発展してきた、まさに漁港を懐に抱え込むような格好をした街だった。
さぞ風光明媚なところだったと思う。

目の前に広がっているのは、コンクリートの基礎である。
辺り一面広がるコンクリートの基礎の間を縫うようにして代行バスは走る。
小高い山の上に総合運動場や大きな体育館があった。
小学校もある。

ここが、代行バスの終点である。
どこにも街並みはない。
どこにも人影はない。
周りが山に囲まれた総合運動場がJRの終点である。
その先には道がない。
完全な行き止まり。

不思議なところに来たものだと思いながら、バスの出発時間を確認しながらあたりを見回した。
バス停からちょっと離れたところに体育館があるので、ちょっと覗いてみようと思って歩いてみた。

大きなカメラを設置してファインダーを覗いているらしい人たちがいたので、何かの取材で来たのだろうと思いながら、邪魔にならないようその一団を避けるようにして体育館の前を通り過ぎた。

こんな寂しいところをなんで撮影するのだろうか。
どこかのテレビ局の人なのかしら。
しっかり、うっかりの私は、そんなことを考えていた。

体育館を通り過ぎるあたりで一人の女の子を姿を見かけた。
私の姿を見て、すぐ物陰に隠れる。
体育館の陰に隠れるようにしてテレビ局の人らしい一団を見ようとしている。
私が女の子の方を見ると、また隠れる。

動物が人の物陰に怯えて(おびえて)隠れるのと同じような格好で隠れるのだ。

明らかにこの女の子は何かに怯えている。
大人に怯えているのか。
よその人に怯えているのか。

予備知識なく女川に来たのが間違いだったかも知れない。

体育館を過ぎて奥の木立に隠れた一帯に仮設住宅が建てられていたのである。
綜合運動場と大きな体育館、小学校の外なにもない、小山の上の平地である。
あの女の子は、仮設住宅の住人の一人に違いない。

小学校の4、5年というところか。

どういう悲劇がこの子を襲ったのかは、分からない。
しかし、人の物陰に怯えているような、その女の子の素振りは普通ではなかった。

子どもたちの心を開くのは、そう簡単なことではない。

そう思ったら、背中にずっしりと重い荷物が乗っているように感じてきた。

余りにもその荷物が重く感じられたので、仙台で1泊する予定で出かけてきたが、家に帰ることにした。