自民党の再生のための政権構想会議での議論が紹介されている。
自民党の党名が嫌われているから党名変更をすべきだ、というとんでもない意見も出てきたようだ。
自由民主党という党名が嫌われているのではなく、自由民主党という政党の存在自体に対する国民の評価がマイナスになった、という認識が欠如している。
党名の自由民主には、何の罪も無い。
何故自由民主という素晴らしい名称を冠しているにも関わらず、国民の評価がここまで低下したか。
このことをもう一度胸に手を当てて考えてみる必要がある。
選挙の洗礼、国民の審判をを受けないで、小泉、安倍、福田、麻生と1年ごとに総理を変えたことが一番大きいのではないか。
勿論その時々の閣僚の不祥事や、国会運営のまずさ、国民の声に対する鈍感さなどもあっただろうが、如何にも自民党が国民と遊離している、独り善がりで国政を運営している、ということに対して有権者がノーと言ったのではないか。
そうでなければ、あれほどの大敗には繋がらなかったはずである。
私よりも何倍も日常活動を行っていた人も議席を失った。
私よりも遥かに恵まれた環境で政治家になった人も議席を維持することは出来なかった。
私よりも遥かに国政に貢献してきた、と思われる人まで新人に敗れ去ってしまった。
故中川昭一氏が述べていたように、私たちは一度否定されたのだ、ということをよく認識しなければならない。
再生というのは、一度死んだという自覚があってこそ実現できる。
私が「フェニックス早川忠孝の一念発起、日々新たなり」、と自分のブログの名称を変えたのは、自分が一度死んだという自覚があったからだ。
さて、自民党の名称問題をどう考えるか。
中身を変えないで名前だけを変えても意味が無い。
自民党は一度死んだのだ、という自覚をどの程度持っているかに懸かっている。
看板を変えるときは、中身が変わるときだ。