私が普段利用する朝霞駅や朝霞台、志木、和光の各駅の側には全て交番がある。
お巡りさんが駅周辺の通路に立っているだけで、私たちはほっとする。
私たちが困ったときには、とりあえず交番に行って相談する。
道を聞くのも、救急車の手配をお願いするのも、酔客の喧嘩を止めさせるのも皆、警察官の仕事だ。
市民生活の守り手、まさにそう言われるに相応しい大事な役割を一人ひとりの警察官が担っている。
そのために、警察官には一般人とは違った大きな権限が与えられている。
警察官に対して国民の厳しい批判が寄せられるのは、警察官がその権限を濫用したときである。
犯人を逃がしてはならない、その思いが、あいつが犯人に違いない、という思い込みと重なり合ったときに、とんでもないことが起こる。
とりあえず捕まえてきて、吐かせてやろう。
自白偏重の日本の刑事司法では、どうしてもそうなってしまう。
自白が証拠の王様、そんな感じだ。
ということで、警察のとんでもない勘違いや思い込みで、犯人でない人を犯人扱いにする。
最初は参考人だが、途中から被疑者になる。
はじめは任意捜査ということだが、素人ではなかなか取調べを拒否できないような雰囲気での取調べが続く。
そのうちに犯人の検挙を急がせられ、証拠の厳密な検討をしないまま逮捕状を請求し、身柄を確保しての強制捜査ということになる。
その過程で大変なことが起きる。
自白をさせるために、可能な限りあらゆる手段を使う。
複数の者が関係する事件の場合は、事件関係者の誰かが既に犯行を自白していると思わせるようなテクニックを駆使する。
客観的な証拠が上がっており、いくら否認してももう逃れようがない、と思い込ませるように仕向けていく。
否認を続けていれば、今度は家族や会社の上司を逮捕しても調べるぞ、などと追い込んでいく。
机を叩いたり、大声を出したりもするだろう。
そんな馬鹿な。
そう思われるだろうか。
それとも、それくらい仕方がない、と思われるだろうか。
新たな犯罪被害を防ぐためにも、真犯人を逮捕し、厳正に処罰してもらいたい、これが国民の願いである。
だから、正義を実現するために警察官がやっきとなるのは自然であり、国民として甘受しなければならないことも多い。
しかし、もしその取調べを受けている人間が犯人でなかったら、ということを考えると恐ろしい。
真犯人は逃がさず、その一方で絶対に捜査の行き過ぎや人権侵害と言われるような事態が生じないようにしなければならない、そう、私は思っている。
決して不可能なことではない、と私は信じている。
ところが、現在の日本の司法は、未だに、犯罪を犯していない人を逮捕し、起訴し、処罰する、そんなことが可能な仕組みだということが明らかになった。
昨年、富山県氷見市の強制猥褻冤罪事件、鹿児島県志布志の公職選挙法違反被告全員無罪事件がまさにその実例である。
なんとなく耳にしてきたが、これほどひどかったのか、そう思わざるを得ない。
無辜の者を処罰してはならない、ということは当たり前のことである。
その当たり前のことが、捜査の現場で守られていなかった、ということが明らかになった。
国民を守るべき司法が、国民の人権を侵害する重大な欠陥を内包している、私なりに言うとそういうことになる。
治安を守り、犯罪の摘発と捜査に当たる警察の現場で杜撰な捜査がまかり通り、検察官も裁判官もそのチェック機能を果たしていない、そのことが問題である。
氷見事件では、肝心の弁護士が冤罪を防ぐための役割を果たしていない。
やってもいない刑事事件で、少しでも量刑を軽くしてもらおう、と示談の話し合いをした、などということを聞けば、いったい日本の裁判はどうなっているんだ、弁護士は何を考えているんだ、ということになる。
私は、この際徹底的に日本の刑事司法の膿を出していかなければならない、と思っている。
昨日の司法制度調査会の捜査の適正化を検討するプロジェクトチームの会合で、警察庁から「捜査の適正化を実現するための指針」が示されたのは、その一歩である。
私は、もう一歩歩みを進めて、一定の事件については取り調べ状況の録画・録音を慣例化し、捜査の適正化を一層推進すべきであると考えている。
捜査の萎縮を招く、とか、真犯人の逮捕や処罰が難しくなり、日本の治安が悪くなる、という懸念が示されているが、果たしてそうか。
この議論も国民に広く公開しながら、進めていかなければならない大事な課題である。
まずは、警察庁から捜査の適正化のための新しい指針が示されたことを評価したい。