劇場版「仮面ライダージオウ」を観てきた(ネタバレ有)(その2) | 無敵動画堂高田のブログ

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劇場版「仮面ライダージオウ Over Quartzer」
感想の続きです。
 思いっきりネタバレありなので、そういうのが苦手な方は、スルーして下さい。


 今回の劇場版は、仮面ライダージオウの、真の最終回、という位置付け。
 ゆえにTVシリーズ「仮面ライダージオウ」についても、少し触れないと、ちゃんとした感想にならない。
 長くなりますが、つらつら書いていきます。

 そもそも、TVシリーズ「仮面ライダージオウ」という作品は、設定が滅茶苦茶な作品なのだ。
 世界設定が別々であるはずの平成仮面ライダーシリーズが、
全て同じ世界観の物語であり、過去の歴史として存在する、
 という、あり得ない基本設定からスタートする。
 いや、どうやったって、あり得ないでしょ?
 実際、そこのところ、どう整合性をとったと解釈すればいいのか?
 何しろ、次々に過去の作品のキャラクターが登場するにもかかわらず、
どこまで、過去の作品と同じであるか、違うのか が、明確に説明はされず、ストーリーが進行する。
 元の作品との相違点が多いキャラクターが頻繁に登場するため、それぞれのTVシリーズとは完全に別世界のものと考えればいいのね
と解釈していると、
 元のTVシリーズの後日談として観るのが適当と思われるエピソードも出てくる。

 しかも、それらについて、詳しい説明はほとんど行われず、
各作品の世界観との整合性を考えた方がいいのか、無視した方がいいのかすら、
何となくその場のムードで決まる

という、無茶苦茶な世界設定のまま、番組が進行していく。

 が、今回の映画は、そんな私の悩みにすら、答えを与えてしまう、とんでもない映画だった。
 作中で堂々と 平成仮面ライダーシリーズは設定も世界観も滅茶苦茶 と公言し、
 歴史の管理者であるクォーツァー達は、そんな平成ライダーを消滅させ、もっと美しい形に作り直す、という。
 メタフィクション的展開の導入である。
 それでいて、軸足はあくまでも「仮面ライダージオウ」というフィクションである。

 クォーツァー達は、いわば平成ライダーシリーズに不満を持っているファンの代弁者として登場。
 そんなクォーツァー達が使うライダーの力とは
仮面ライダーBlackRX、真、ZO、J
といった、平成初期のシリーズでありながら、「平成ライダーシリーズ」には組み込まれず、「昭和ライダー」扱いを受けている者たち、
そして「仮面ライダーアマゾンズ」という、昭和ライダーシリーズにハッキリとルーツを持つリブート作たちである。
(昭和にルーツを持つリブート作としては「仮面ライダー THE FIRST」及び「NEXT」が存在し、これらは一見、要素が拾われていないように見えるが、
 クォーツァー達を演じた DA PUMP は、「THE FIRST」の主題歌を担当しており、
 また、バールクスに変身するSOUGOを演じた ISSAは、ショッカー幹部として出演もしている。
 十分、要素は拾っているといえよう)

 クォーツァー達が考える美しい平成とは、「昭和にルーツを持つ平成の者たち」のことなのである。

 ……何という皮肉!

 今の若い子たちは知らないかもしれないが、RX以降の作品群が、(正確にはBlack以降の作品が、であるが)どの作品も、いかに挑戦的で、いかに当時の昭和ライダーのファンたちからの激しい批判にさらされていたことか!

例えば
・Blackのデザインが発表されると、手袋、ブーツ、マフラーを排したそのデザインに対し、反発意見が続出。対して、肯定的に捉えた方から、某雑誌で「そんなに旧来のイメージが好きなら、再放送かビデオの録画をいつまでも観ていればいい(意訳)」的意見が書かれるなど、かなり批判合戦はヒートアップしていた

・バッタ型のバイク「バトルホッパー」については、某誌に「バッタじゃなくて、こりゃモスラの幼虫だな」といった評(?)が載せられたりもした

・バイク・ロードセクターに対しては、某ムック本に「作品のコンセプトを破壊しそうなほどにオモチャしているメカ」とか書かれる始末

 Blackで、これだったのである。

 キックではなく光線剣を必殺武器にし、
 3つの変身フォームを使い分け、
 バイクだけでなく車に乗る
 作風はグッと児童層を意識した作り
 だったRXなんて、
いやそりゃもう、ファンがどういう反応をしていたかって……。

 この、挑戦的作品群だったモノたちの力を使い、
 挑戦的作風であるが故、設定も世界観も滅茶苦茶な平成ライダーシリーズを破壊しようとする、クォーツァー達……。

 なんだこれ?

 普通、この作品の対立構造から言って、
・クォーツァー側は、「美しく整合性の取れた作品世界の力」を使い
・対するソウゴ達が「整合性はとれていないが、挑戦的な作品世界の力」で立ち向かう

 のが、正しい構造の筈なのだ。

 が、クォーツァー達、大喜びで(?)光線剣を使うは、バイオライダーになって液状になるわ、Jの力で巨大化するわ、
 実際にやることは、「挑戦的」だった部分を、大っぴらにやってくる。

 フィクション作品を楽しんでいる時に、その作品に「メタフィクション」要素が入ってくると、「醒める」人は多いと思う。
 が、この実に皮肉のきいた展開により、この映画は間違いなく
ハイレベルのメタフィクション要素を持つフィクション作品
として成立していた。

 ……まだ書き足りないので、続く!

(続く)