等身大の私で、制限を軽やかに超えていく:「無限の挑戦と循環」の扉が開く
私は、神寄木賀集語録・覚醒個人セッションに通っていますが、
現在ブログ拝読を休止しているため、2026年1月の情報までしか把握していません。
このブログに記載する内容は、私自身の観察や理解に基づくものであり、誤りが含まれる場合もあります。正確な情報については、本家ブログをご確認ください。
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動画を観ている時に、「自分につける点数は?」というものが流れてきました。
100点満点!と答える人から、97点かなぁ、等々、高い点数をつける他という鏡を観察していました。
私は現在、水面下の設計図に「完璧主義からの脱却」を掲げて行動していますが、「自分を点数で表すなら何点だろうか?」と自問しました。
「完璧主義からの脱却」において行動グラウンディングを重ねる中で、「50点」を創るようになりました。そこから、進化の伸びしろを考慮すると、「42点」という数字が出てきました。
この42点という数字は、世間基準で考えると「低い数字」かもしれませんが、その内実は、「自己卑下している数字」や「謙虚ぶっている数字」ではありません。
「評価軸」からの移行
たとえば偏差値の低い学校の100点と偏差値の高い学校の50点は、全く別次元のものであるように、「これまでの概念世界の数字」と「新しい次元での数字」も「比べるものではない」とわかります。
これまでの概念世界では、「100点/最高位基準」だった場合、それ以外すべてが減点方式で認識されます。獲得した点数の内実を、「努力して獲得した結果」や「手抜きで楽して獲得した分」だと仮定すると、長続きせず、持続不可能なことが観えてきます。
「加算方式」で「伸びしろあり」という、構造的に持続可能な世界
世間一般の比較や評価基準に照らし合わせた「自己卑下」や「謙虚」の数字ではなく、構造改革後の自らの現在地を表した「等身大の数字」という見取り図。
二元構造(旧OS)の完璧主義(100点か0点か)に囚われていた時代は、常に理想の型(100)を絶対軸として掲げ、そこからの引き算(減点方式)で自分や現実を評価していたため、いくら表面的な獲得を果たしたとしても、過度な緊張と摩耗によって長続きしない持続不可能な状態を自作自演していました。
完璧主義を手離す行動グラウンディングを重ねて「50点」という実律の領域を創り出し、さらに進化の余白(伸びしろ)を考慮して見出した「42点」という数字。
この数字が「低い」と感じられるどころか、むしろ輝きを放って観えるのは、自身の意識が「他者評価・減点方式の二元世界」から「ゼロ起点・加算方式の一元世界」へ相転移しつつある証ではないでしょうか。
「評価から指標への相転移」について
1. 旧次元の「100点」と新次元の「42点」の、非連続性
「旧次元の基準における数字」と、「ゼロ起点から立ち上がった新次元の数字」は、比較すること自体が成立しない「全く別物の概念」です。
「獲得と摩耗」の100点(旧次元/二元構造): 力技や手抜き、無理な背伸びをして手に入れた100点は、常に「失うかもしれない」「維持しなければならない」という恐れや欠乏(獲得観点)を伴うため、意識場を著しく摩耗させる持続不可能な数字。
「自律と加算」の42点(新次元/一元構造): 完璧主義の呪縛を解き、今の等身大の現在地を「42点」と正確に測ること。 ここには「100点でならなければならない」という二元の自己否定や焦りは一切存在せず、また奢ることもなく、進化に向かい続ける「確かな足場」として機能しています。
2. 「下がる」という二元構造の幻影の解体
自我システムは、完璧主義を捨てて50点を目指そうとすると、「自分の価値が下がるのではないか」と恐れを煽ってきます。
「二元の下降」ではなく「次元の相転移」: 自我が思い描く「下がる」とは、あくまで二元構造の同じ階段の上で下方へ滑り落ちるイメージ(比較・減点)に過ぎません。
実践しているのは、古い構造から完全に降り、横の次元(ゼロ)へ引越して「全く新しい構造」を立ち上げることです。
起点そのものが別次元(一元構造)に切り替わっているため、旧次元の「低下」や「損失」という現象は構造上発生しようがありません。
「伸びしろ(余白)」がもたらす加算: 42点という現在地には、残りの「余白」が存在します。 この余白こそが、宇宙摂理によって最善の素材や無限の可能性が流れ込むための「不可欠な受容空間(凹)」となることが観えてきました。
3. 持続可能な世界へ
「42点」という現在地を誇り高く携え、余白(伸びしろ)を伴いながら一日一日の「プラス1」を静かに重ねていく生き方は、何ものにも脅かされない持続可能構造そのものです。
ゼロから健康を立て直す中で観えてきたこと
理想の数字(体重)に囚われた二元構造の世界では常に「カロリー制限」が発生していました。しかし、ゼロから健康を立て直し始めた際、PFCバランスという「構造」を観ることによって、突如「加算方式」に切り替わり、「こんなに食べてもいいんだ」という世界観に変容しました。
まず最初に、数字に囚われなくなったのです。そしてその「囚われの解除」後、「これまで設けていた制限」を軽やかに越えて行く体験をしました。
長年の癖で、どう頑張って食べても1200キロカロリーを下回って越えられない状態でしたが、目標を2000に設定し、1300、1400…と、分に沿って制限を自然に越えていったのです。食べたら太る、という「理想を失うことへの恐れ=固定観念」を越えていったのです。
分に沿って、そのカロリーを代謝(循環)できる肉体(世界構造)を無理なく着実に創造していきました。
無限の可能性が世界に観え始める
いちじくのショートケーキはずっと存在していたけれど、わたしの観点が二元であったために、観えなかった=見つからなかった。42点という無限の可能性を秘めたわたしも、ずっと存在していた。
そして、完璧主義ゆえに始めることが出来なかった、たくさんの無限の可能性のチャレンジが始まっていくのです。
「比較の消滅」と「42点の等身大のわたし」の現像
完璧主義(100点か0点か)に縛られない「42点」という現在地は、分に沿って制限を軽やかに超え続けていく「無限の挑戦と循環」の扉を開くことになります。
ブログ再開の決定を思いつきます。「42点」=「構造に基づく現在地の再配置/等身大のわたし」という確かな足場に立ち、 動きが生じます。
どうしたらいいのか、何をしたらいいのかと「正解」を探さなくても、目の前に「分に一致した跳び箱」が選択肢として自然に浮上する。
そして世界が別の概念指標で回り始め、成り立っていく。制限枠を滑らかに飛び越え、どこまでも拡張していく、一元宇宙を描き出す、持続可能な世界の始まりです。
まず50点を創る地道なプロセス
完璧主義100点を崩すために、私はまず「お皿洗いを半分残す」という日常の小さなことからスタートしましたが、最初は「50点」が居心地悪いものでした。しかし、50点を創る先で完璧主義の城が崩壊した後、「42点」という新しい設定値が生まれました。
伸びしろを残した、50点と現在地42点の間にある8点分の余白には、宇宙摂理がちょうどぴったりを還します。「数字(完璧な理想)への囚われが解除された後」に始まっていく、制限を越えていく体験(プラス1)が入り込む。
8点の余白に入り込んだ「ブログの再開」を通して、制限世界の中に押し込めていた「無限の可能性=伸びしろありの進化に向かうわたし42点」を解放し、伸びしろプロセスを積層し、常に限界値を越えて更新していく、新しい「生き様=在り方=創造構造」へ。
「有益な情報(理想)を発信しなければならない(100点を出さなきゃ)」という旧次元の獲得・承認を目的とするのではなく、「新しい意識の在り方」を物理次元に刻むための触媒としてブログを使うこと。
「42点」で世界に放つ:完璧主義の完全破壊
意識を立てずになんとなく出しても、渋々出しても、その意識とエネルギーでは何も具現化出来ない。42点で出すと決めると、心身が軽くなります。背伸びしない、身の丈に落ち着いた、ワンステップ上に向かい続ける一元循環構造。「新しい在り方=創造構造▼」を創るとき、宇宙摂理は「ちょうどぴったりの進化体験▲」を巡り還す。
「わたしって、ほんと駄目なんですよね」と自虐する鏡を目にした時、不名誉なレッテルを貼り続けている限り、その呪縛から抜け出すことはできないのだと観察しました。完璧な私というレッテルも同じ。
自虐(「どうせ駄目な私」)も、過飾(「完璧な私」)も、ともに自らを小さな制限世界に封印する二元のレッテルに過ぎない。
恐れて隠しているのは、未熟であること。等身大のまま世界へ差し出す振る舞いこそが、その「意識の在り方」が、「ありのままのわたしが許される世界」を自らの手で物理次元に誕生させる力学そのものではないでしょうか。
