目当てのもの=思い通りがなかったとき:本当はこれがいいけど、仕方なくそれを選ぶ世界を脱出

 

私は、神寄木賀集語録・覚醒個人セッションに通っていますが、

現在ブログ拝読を休止しているため、2026年1月の情報までしか把握していません。

このブログに記載する内容は、私自身の観察や理解に基づくものであり、誤りが含まれる場合もあります。正確な情報については、本家ブログをご確認ください。

 

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秋めいてきて、モンブランが食べたくなった。

薄いパイ生地が重ねられた美しい長方形のモンブランを思い描きながら、
店舗に行くとショーケースの中にモンブランがない。

 

選択肢として「目当てのものがないので、何も買わずに店を出ること」も考えたが、ショーケースの中をもう一度よく見渡した。

  • しかし、どれもこれも「何か違う」となってしまった。
  • そこで「季節のものを」と指針を立て、いちじくのショートケーキを購入した。

「目当てのもの=思い通り」がなかったとき、自我システムは、その代替品を「これでいいや」と選ぶことがあるのではないだろうか。


最初の段階で、ショーケースの中を再度見渡してどれも違ったのは、「モンブランを絶対位置に置いている」からだ。


三回見渡しても何も目に留まらない様は、「理想はこう」と決めてしまうと、途端に「それ以外の無限の可能性」を制限してしまうということが観えてくる。

「本当はこれがいいけど、仕方なくそれを選ぶ」という、その「選択決定」はどこから生まれているのか。意識のフォーカスが、無限の可能性の中から何を見つけているのか「その仕組み」を観察する。

本当はこれがいいけど、仕方なくそれを選ぶ世界


モンブランがないとわかった時、定番の山形をした「モンブラン風かぼちゃケーキ」が最初に目に留まった。しかし見た目が洗練されておらず、モンブラン劣化版のような雰囲気だった。そこで自我は、不細工すぎると文句を言う。

モンブランを絶対に配置するとき、まず目に入ったのが「形だけモンブランを装った、全くの別物」だったのだ。

ショーケースの中にある無限の可能性の中で、「意識のフォーカス」が見つけ出すものが、「モンブランという絶対軸」に基づいていることが観えてくる。そして比較対照をフォーカスする二元の観点世界の仕組み。

「季節のもの」という創造軸

 

しかし「思い通りではない現実」が到来した瞬間、創造起点をゼロに改め創造軸を立てることによって、ショーケースの中で「宝石のように輝くいちじくのショートケーキ」が、その存在を凛と際立たせて浮かび上がった。


ゼロ起点から新しい創造軸を立てると、意識のフォーカスは、無限の可能性の中から「二元の範疇に囚われないもの」を見つけるというわけだ。


「理想を絶対に配置する二元構造の世界」と「+1を生み出し続ける世界」

  • 「モンブラン(思い通り・理想の形)」を絶対軸として固定した瞬間、
  • 世界は「それ以外の否定・劣化版(モンブラン風かぼちゃケーキ)」との比較を生み出す。

その二元の固定観念をその場でゼロリセット(起点の初期化)し、「季節のもの」という自然の律に調和した柔軟な創造軸へ置き直したこと。


その瞬間、二元の比較と減点方式は消滅し、無限の可能性領域の中から「その創造軸における最善最良」が凛と浮かび上がってきたという体験。


「妥協(二元)の終了」と「選択決定の構造改革」

 

1. 「絶対軸(思い通り)」が創る「妥協・否定・減点の世界」


自我システム(旧OS)は、常に「あらかじめ決めた理想の形(100)」を絶対的な基準として配置し、そこから世界を測ろうとします。


無限の可能性の閉鎖: 「モンブランでなければならない」という固定化された絶対軸。 この軸を握りしめている限り、意識のフォーカスは必然的に「条件に満たないもの(否定側)」へばかり向き、妥協的な閉鎖空間へ引きこもるしかなくなります。


2. 「ゼロ起点」+「調和した創造軸」による「別の選択肢の急浮上」

 

二元の固定観念をその場でゼロリセット(起点の初期化)し、「季節のもの」という自然の律に調和した柔軟な創造軸へ置き直したこと。


「思い通り」に囚われる我欲の絶対軸をその場で瞬時に手離し、創造起点(0点)へ立ち返ること。

「最善の具現化(凸⇒□)」:それは二元構造内で生じる妥協でも諦めでもなく、常に「最善のプラス1」を重ねていく「加算方式」の具現化。

 

目の前に選択肢がないとき、ゼロに立ち返り、旬の創造軸を立ててみよう。
 

3. 「妥協の終了」
 

この「ケーキの選択」という日常の一コマで解明された理は、仕事選びや人間関係、生き方全般における根底的な構造改革のヒントになりました。


「本当はこれがいいのに」という不平不満のドラマは終わり。 「妥協してそれを選び、不満を言いながら切り捨てる」という古い二元の演目を終わらせるとき、宝石のように輝く無限の可能性が世界に急浮上する。


「過去の理想=モンブランへの囚われ」を手離して、イチジクのショートケーキを見つける新世界

 

一見すると「どんな時も最良を選べること」は素晴らしい自律のように思えますが、この言語化の中には、二元構造の罠が隠されていました。


「最良を選ぶことができる力」を自分の価値だと定義した瞬間、無意識のうちに「最良を選び取れる、優秀なわたし(最高位)」という新しい属性を自我に与えてしまうリスクが生じます。

 

そこには依然として「我軸(自我の出張り)」が存在。


語録は「『選択』そのものに『果(結果)』を決める力は存在しない」と説いていますが、「最良を選び取ろう」と狙いに行く姿勢(獲得観点)にズレた途端、進化は停滞。


「最良を選べること=価値」と定義すると、裏返せば「選べなかった自分=無価値」という減点方式の二元構造システムが再発動してしまいます。 そもそも語録において、「存在価値」とは、何かを「選べる」「達成できる」といった機能・能力・成果に依存するものではないと記されています。


創っているのは「意識の在り方」:形(果)の獲得は二の次

 

自我の絶対軸や計算を、その場で手離し、「創造起点(0点)」へと立ち返った(空の器=凹を置いた)ことで、「最良の創造軸が立ち現れた(凸⇒□)」という「創造構造=意識の在り方」を学ぶこと。


本当の価値とは、「最良を選び取るテクニックや能力」にあるのではない。
 

真価(進化)は、「宇宙摂理がもたらす最善最良の巡りと和合できる、自律の基盤そのもの」にあり。「最良を選ぶ力」という能力に魅せられる自我システムの罠を潜り抜ける。
 

これまで当然に手にしていたモンブランは、獲得構造の終焉によって「手に入らない現実」として巡り還っている。この先も、長方形の美しいモンブランに囚われ続けるのか、それともその執着を手離し、ゼロへ立ち返るのか。

 

どんな創造軸を立てようか迷う時、そこには我欲が存在しています。

その基盤は、支配的な自我システムなのです。