私は、神寄木賀集語録・覚醒個人セッションに通っていますが、
現在ブログ拝読を休止しているため、2026年1月の情報までしか把握していません。
このブログに記載する内容は、私自身の観察や理解に基づくものであり、誤りが含まれる場合もあります。正確な情報については、本家ブログをご確認ください。
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「後でいいや」という「わたしの都合・最優先設定」
早朝、久しぶりに散歩に出掛けようと
マンションの階下に降りてから、
ゴミ捨ての日だったことを思い出す。
しかし、「後でいいや」とそのまま散歩に出かけた。
駅前で黄色いタクシーが目に留まり、
(早朝には滅多にいない)
「タクシーに乗って、早朝に近所の森林公園まで行きたい」
と考えていたことを思い出す。
しかし、ゴミ捨てをそのままにしていたので
家に帰らなければならず、
「後回し意識がタイミングを逃すこと」を観察した。
帰宅後、ゴミ捨てを済ませたが、
「今行かなきゃ後悔する気がする」と思い、
再び駅前のタクシー乗り場に向かうが、
タクシーは一台も停車しておらず、「学び1」としてカウントした。
- この事象の観察ポイント
「後でいいや」という
「わたしの都合最優先設定」が、
いかに今この瞬間に現れた最善の巡り(タイミング)を逃してしまうのか。
いつか願っていたことがポンと目の前に現れた時、それが手に届くか否か。
「わたし中心で動く世界」がどんな世界を具現化しているか。
その焦りから「取り戻そう」と動いた結果の現像も含めて、観察しました。
わたし中心で動く世界の結実
1. 「後でいいや(私都合)」が奪う、選択の自由
早朝の「ゴミ捨ては後でいいや」という一瞬の妥協。
一見すると小さな選択に見えますが、
「自分の快適さや都合を優先する」という
「私中心軸(旧OS)」が作動していました。
自由を奪う「留保された因」: 駅前でタクシーという巡り(縁)に出遭った瞬間、本来なら「乗る」という選択決定を即座に行使できたはず。 しかし、自らが放置した「ゴミ捨て」という未完了の因がブレーキとなり、「家に帰らなければならない」という制限として自分を拘束。 「後回し意識」が、今この瞬間のタイミングを逃させるカラクリ。
2. 「後悔する気がする」という恐れ起点の獲得
「今行かなきゃ後悔する」という焦りから、
再び駅前へ向かったプロセス。
自我システムはこれを、
まだタイミングに乗れるはずだと誤認。
取り戻そうとする二元の獲得意識: 「逃した分を取り戻さねば」「後悔したくない」という恐れや損得(二元)を起点にして動き出す時、そのエネルギーは「巡りとの調和」ではなく「獲得の力技」。
「恐れや取り戻しを起点にして動いても、そこには循環の波(タイミング)は合致しない」という、客観的データの提示。
3. 「学び1」として回収
「後回し意識(私都合)」と、
「取り戻しの焦り(獲得)」。
「学び1(1素材)」として、
「失敗」として出来事を固定せず、進化の糧として循環構造に再配置。
- 今の意識の在り方では、タイミングを逃してしまうこと。
- 後回しにせず「今ここ」で完了させていくこと。
- 未だ、獲得観点が元気に稼働しているということ。
焦って取り戻さない。
それは、時間軸概念上の創造になってしまう。
それは、失敗を否定に配置している二元構造の認識世界。
過去の失敗を挽回しようとしていないか?
前だけを見よう。
後回しを手離し、今この瞬間の点灯を逃さない。
「願いが手に届く世界の理」について
かつて願っていたことが、
ある日不意に目の前にポンと現れた時。
それを「手に取り、巡りの中に溶け込める(手に届く)」のか、
それとも「見送るか、目の前で滑り落ちてしまう(手に届かない)」のか——。
一元構造か、二元構造か、それは次元の隔たり。
それを決定づけているのは、
他でもない自分自身が日頃から放ち、
積み上げている「意識の在り方(因)」そのものであるという、構造的観察。
1. なぜ「手に届かない(逸する)」現実を自ら創造してしまうのか
二元構造システム(旧OS)の領域に留まっている時、
私たちは無自覚に「手が届かないカラクリ」を自作自演で構築。
私都合による「後回し(未完了の因の滞留)」: 「今なすべき一役」を「後でいいや」と私都合で留保した時、その未完了の因は自らを縛る「無形のブレーキ(制限)」へと姿を変えます。いざ目の前に最高の巡りが現れても、そのブレーキが働いて足止めを喰らい、受け取ることができません。獲得意識の巡り還りです。
「逃したくない」という恐れ・焦り(二元獲得意識): 逃した巡りを「取り戻さねば」と焦って追いかける時、その起点は「欠乏と恐れ」です。力技で掴み取ろうと動けば動くほど、波長は巡りの周期と噛み合わなくなり、結果として「手が届かない」という現像を自ら創造することに。
2. なぜ「手に届く(全自動で巡りと合致する)」のか
一元構造(新OS)に佇む時、
「手に届く」現象は努力や力技ではなく、
「調和(全自動の巡り還り)」として結実。
「今この瞬間」の即時点灯: 日頃から「後でいいや」という妥協を挟まず、目の前の一役を「今ここ」で誠実に完了させ続けること。 この未完了のないクリアな意識場には、何のブレーキも滞留していません。
「私最高位」を捨てたゼロ点着地: 獲得我欲を手離し、最後尾に佇んでいること。その在り方が目の前の事を後回しにせず、 さらには目の前に現れた巡りは何ひとつ邪魔されることなく、完璧なタイミングで「手に届く」ことに。
3. 被支配者の「運任せ」から、自律/自立した「創造主」へ
「チャンスに恵まれるかどうか」は、
「今この瞬間の自らの在り方・選択決定」にかかっている。
100%自分が生み出しているという圧倒的な自律/自立に立つこと。
「手が届かない」という悲劇も、
「手が届く」という歓喜も、すべては
「今この瞬間」に置いている因の正確な鏡(データ)に過ぎない。
