日本を発って、昨日でちょうど1か月。
長かった旅も、実質的には昨日が最終日ということになりました。
メリダのホテルで優雅な朝食を味わい、1日が始まりました。
午後、ルチャリブレの師匠であるフリオのお宅を訪問する約束をしていました。
待ち合わせのサン・セバスチャン公園へと歩きます。
市内中心部からかなり南にあり、旅行者向けの地図からははみ出したエリアに住んでいるようです。
約束の14時頃にフリオが現れました。
本当は前日に訪問する話になっていたのですが、ウシュマル遺跡の歩き疲れから、1日延期させてもらいました。
まずはそのお詫びを伝えます。
公園から10分ほど歩きました。
30年ほど前は危険なエリアだった、などと言っていましたが、今では静かな住宅街です。
そんな中の一軒家にお邪魔します。
奥さんとは離婚したようですが、娘さんたちが出迎えてくれました。
グアテマラに住んでいた頃には幼かった長女は、今では25歳。
感慨深いものがあります。
当時、彼女と一緒に撮った写真も残っており、見せてもらいました。
テレビで日本の話題になる度に思い出してくれたとのことです。
宮崎駿さんの作品やドラえもんは、子どもの頃から大好きだそうで、かなり年季の入ったドラえもん人形も見せてくれました。
日本のアニメ文化の浸透は、真実のようです。
フリオの選手時代、その後のレフェリー時代の写真や掲載された雑誌の記事などを眺めます。
日本でも馴染みのある選手も多数おり、ルチャファンにはたまりません。
また、グアテマラから帰国した年に自分が送ったクリスマスカードも、大切に残してくれていました。
下手なイラストがなんとも恥ずかしいのですが、懐かしい思いで溢れてきます。
途中、来客があったのですが、後で聞けば商品製作を依頼されているルチャドール、プロレスラーとのことのでした。
「娘たちのためにも、まだまだ仕事をたくさんしなければ」
と言うフリオですが、何年か前には体調を崩して40日ほど入院したとも言っていました。
と嘆くフリオに、
「それは嬉しいこと。誰も来なくて、仕事もなかったら淋しいでしょう」
などと言ってみたりします。
しかし、なにより、健康第一。
無理しないように、と付け加えるのも忘れません。
それは、自分自身にも言えることです。
話題は日本の少子高齢化問題になったり、グアテマラのビールがメキシコに参入している現状になったりします。
しかし、どの話題も最後には、とにかく再会出来たことが嬉しい、という結論に行き着きます。
フリオのお宅には2時間あまりの長居となりました。
「渡したい物がある」
と言って奥に行ったフリオが、いくつかの物を手に戻って来ました。
レフェリーとして着用していたシャツと覆面でした。
アトランティス、ミスティコなど、かなりの大物です。
大一番の試合を裁いた思い出のシャツに違いありません。
シルバーの覆面は、メキシコの英雄だったエル・サントの息子のもので、これまた直筆サインが入っています。
「これらは、フリオにとってとても大切な物ではないのか?」
何度も問う自分に対し、
「今は、お前が大切なんだ。ぜひ受け取ってほしい」
と、手渡されました。
「これは覚えているか?」
黒覆面を差し出して言われました。
「カバジェロ・デ・ラ・ノチェ!」
グアテマラでフリオが選手としてリングに立っていたときの覆面です。忘れるはずがありません。
「お願いがある」
「なんでしょうか?」
「自分はなかなか日本に行くチャンスがない。だから、この覆面が自分だと思って送り込むので、東京でも熱海でもいいから、写真を撮って送ってくれないか?」
「もちろんです。日本に帰ったら、必ず送ります」
その覆面をかぶったフリオ、いや、カバジェロ・デ・ラ・ノチェです。
16時半を回り、そろそろ帰ることにします。
「世界はそれぞれ違う。でも同じなんだなあ」
フリオがポツリと呟きました。
「この涙は悲しいからじゃない。感動の涙だ」
お別れです。
独り、夕暮れ迫る中を歩きました。
サン・セバスチャン公園のカテドラルが、夕陽を浴びてより荘厳に見えました。
旅の実質的な最後の夜にしては随分と質素な気もしましたが、心満たされた日の夜、他に誰も客がいない中で静かに過ごす幸せな時間でした。
時と場所を超えて旅してきたんだな。
そんな実感が湧いてきました。
今年は東京から熱海に転居しました。
それが直接、あるいは間接的な理由で、残念ながら疎遠になってしまった友人もいます。
物理的な距離が、人を縁遠いものに感じさせるのは間違いありません。
しかし、時が流れ、どんなに遠くにいても、わかりあえる人もいる。
友人を、レストランの格付けのように、あるいは雑誌のホテルランキングが如く順位付けて扱うようなことは、自分には出来ません。
人は白黒ではなく、皆、いかがわしいグレーなんだと思います。
だから、愛しい。
それでよいのだと思います。
多くの人たちと接してきた今回の長い旅の最後に、期せずして旅してきた意義がなんとなくわかったような、そんな気がしてきたのでした。