1875年(M8年)5月7日(金)の樺太千島交換条約(Treaty of Saint Petersburg)に依り一時的にはロシア領となるものの、1905年(M38年)9月5日(火)(日本時間)のポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)に拠り大日本帝国領となっていた樺太(樺太庁)からの太平洋戦争敗戦に依る日本の緊急疎開船(小笠原丸、第二号新興丸及び泰東丸)が、ソビエト連邦(Union of Soviet Socialist Republics)の赤軍(Workers' and Peasants' Red Army)の潜水艦(L-12号及びL-19号)から攻撃を受けて沈没した事件から79年となりました。
この事件は、三船殉難事件又は三船遭難事件と呼ばれるもので、大日本帝国領樺太(樺太庁)からの疎開者が乗船している緊急疎開船(小笠原丸、第二号新興丸及び泰東丸)を、終戦後の8月22日(水)にソビエト連邦(Union of Soviet Socialist Republics)の赤軍(Workers' and Peasants' Red Army)が北海道留萌沖の海上で撃沈し、1,708名が犠牲となったものです。
当時の我が国は、8月15日(水)にはポツダム宣言を受諾して既に武装解除を始めており、イギリス軍やアメリカ軍は戦闘行為を停止していたもののソビエト連邦(Union of Soviet Socialist Republics)の赤軍(Workers' and Peasants' Red Army)だけが戦闘継続をしていた様です。
そもそも、ソビエト連邦(Union of Soviet Socialist Republics)は、8月9日(木)に一方的に日ソ中立条約(1941年(S16年)4月25日署名)を破棄して満州国及び南樺太・千島列島に侵攻していました。
(如何も当該国は、ウクライナ侵攻を鑑みても正当な武力を有さない所は、力に依る現状変更を試みる様です。)
今日は、北海道留萌市の了善寺で、その慰霊祭が行われた様です。≫
因みに、小笠原丸(総t数:1,404t、逓信省海底電纜敷設船)は北海道増毛沖に、泰東丸(総t数:873t、2E型小型貨物船)は北海道小平沖に眠っている様です。
なお、第二号新興丸(総t数:2,577t、特設砲艦兼敷設艦)だけはソビエト連邦(Union of Soviet Socialist Republics)の赤軍(Workers' and Peasants' Red Army)の攻撃を受けながらも留萌港に辿り着いた様です。
戦争が終わってからのご受難、心からご冥福を祈念致します。
第一条 両締約国ハ両国間ニ平和及友好ノ関係ヲ維持シ且相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スベキコトヲ約ス
第二条 締約国ノ一方ガ一又ハ二以上ノ第三国ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルベシ
第三条 本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルベク且五年ノ期間効力ヲ有スベシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セザルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルベシ
第四条 本条約ハ成ルベク速ニ批准セラルベシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルベク速ニ行ハルベシ
右證拠トシテ各全権委員ハ日本語及露西亞語ヲ以テセル本条約二通ニ署名調印セリ
昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス
松岡洋右(印)
建川美次(印)
ヴェー、モロトフ(印)