空閨残夢録 -13ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言



 新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書に、聖霊により処女マリアの胎にイエス・キリストが身ごもったと描かれているのは、ルカ伝と後期のマタイ伝に著されている。つまり、四福音書にイエスが処女降誕したことが示されているのは『ルカによる福音書』と後期に編纂された『マタイによる福音書』なのである。



 歴史的に最古の文献(福音書)が『マルコ福音書』で、これは紀元60年代後半に成立されたらしいと思われる。マタイ、マルコ、ルカの福音書の三つは共通部分が多いことから共観福音書とよばれている。


 ある聖書学者の研究によれば『ルカ福音書』の1151節のうち、389節が『マタイ福音書』と『マルコ福音書』と 共通であり、また176節は『マタイ福音書』とのみ共通し、さらに41節が『マルコ福音書』のみと共通している。そして544節が『ルカ福音書』のみにみられるオリジナルということだが、これらの三つの福音書が同じ言語で書かれていたであろうことを思わせる多くの証左がある。


 しかし、『ルカ福音書』は文体においてもマルコやマタイよりも洗練されており、ヘブライ語に由来する表現などがほとんど含まれていないようで、ラテン語がわずかに含まれているだけであるようだ。


 『マタイによる福音書』の冒頭には、イスラエル民族の父アブラハムからイエスの父であるヨセフに至る系図といえる血統書がまずある。それを関連づけて焦点を処女降誕よりも、イエスの命名、その名前に託されたイエスの出現の意味にしている・・・・・・「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、“神われらと共にいます”という意味である」(第1章23節)。


 その点で、イエスの処女降誕を積極的に記述するのは『ルカによる福音書』のみである。即ち、ダビデ王の直系によるメシアの誕生を伝える歴史的伝承を更に付加して、ルカは処女降誕の色彩を強調する意識が強く働いている。


 このキリスト生誕の記事の背景には、紀元前八世紀の預言者イザヤによるメシア生誕の預言が前提となっていて、『イザヤ書』の言葉にある《おとめ(アルマー)》という言葉が、ギリシア語に訳されたときの誤訳が大きいともいえる。それは「若い女」というほどの意味が、ギリシア語の処女を指すパルテノスがあてられた。



 「『見よ、おとめ(アルマー)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」(「イザヤ書」第7章14節)。



 誤訳も処女降誕に影響しているのだが、ルカは神の霊と処女から生まれたキリストの生誕に強く奇想を感じたとも思わしい。英雄など超人的な存在を、神と人の交渉により生じた存在に魅了されたともいえる。ルカはヘレニズムの世界の住人で、ヘレニストの作家でもあ ったから、神聖受胎という物語に強く好奇に関心を寄せたと思える節がある。イエスが神の子であると信じいている者には、妄想としては処女懐胎と、その出産は、あまりにも神聖な刺激による発想であったのであろうと思わしい。







 さて、2004年度公開の米国映画作品『パッション』、1988年度公開の米国映画作品『最後の誘惑』について以前に紹介したが、史実的なリアリティーとしての磔刑は『最後の誘惑』の方が正しく描かれていたのだが、死んだラザロを生き返らせたり、四福音書にある様々の奇跡を映像にした場面が多々あり、残念ながら『最後の誘惑』はあらゆる面でリアリティとして画期的だったのだが、キリストの奇跡を描くことで、この映画の魅力を半減させてしまったと個人的には感じている。


 『パッション』では、イエスの死に至る最後の12時間を描いているので、イエスの半生に時間的制約があったため、そのイエスの復活という奇跡を除いて、イエスが奇跡を行う場面が一つだけあった。それは、エルサレムのオリーブ山の北西麓にあった場所で、新約聖書の福音書で知られているゲッセマネとも表記されるその場所で、夜更けに神に祈りを捧げる場面から、この映画は始まるのだが、ユダがイエスを裏切りローマ兵を連れてくる場所でもある。


 ヨハネ伝では、大祭司の僕マルコスにペテロが剣を抜き、その耳を斬りつけて、イエスに咎められ、その切り落とした耳を、ルカ伝で描写しているところでは、元に戻し癒されたとある。マタイとマルコ伝、そしてヨハネ伝にはイエスを捕らえようとした者の耳を抜刀して切ったことだけが報告されているが、ルカ伝だけが敵の耳を癒した奇跡の描写がある。


 いずれにしても、四福音書に描かれている奇跡は、ラザロの復活の他は、病人を癒される場面が多い。その他には水を葡萄酒に変えたり、食べ物についての奇跡もあるのだが、1965年度米国映画の大作である『偉大な生涯の物語(Greatest Story Ever Told)』では、四福音書の伝記を忠実に描いているので、まさに奇跡のテンコ盛りといえる映像作品なのである。









 この映画は『シェーン』『ジャイアンツ』などを手がけた名匠・ジョージ・スティーブンス監督による作品。出演者はナザレのイエスにマックス・フォン・シドー、洗礼者ヨハネにチャールトン・ヘストン、ヘロデ王にクロード・レインズ、ピラト総督にテリー・サバラス、本邦の映画では“特別出演”と名前が表示されそうな出演時間が少々のジョン・ウェインがローマの百人隊長、シドニー・ポワチエが十字架を背負うイエスを助けるシモンというクレネ人を演じている。


 裏切り者のユダ役にデヴィット・マッカラムが演じているのだが、四福音書の描写と同じように、何故?・・・・・・ユダがイエスを裏切ったのかが、その因果が全く判らないので、ユダ役を演じる役者は大変難しい演技だったと思われるかも知れない。それでもナザレのイエス役の俳優も、チャールトン・ヘストン演じる洗礼者ヨハネも雰囲気は醸しだしていて、ボクは好きな映画なのだが、なんせ、奇跡とか処女懐胎とかは心底・・・・・・、全く信じておらず、一つの神話的な物語としては壮大な映画作品ともいえる。


 『偉大なる生涯の物語』は、ナザレのイエスの誕生から十字架の死と復活が描かれているが、冒頭のシーンは東方の三博士がヘロデ王の処へ、救世主生誕の祝福のために訪れるところから始まる。そこでヘロデ王はベツレヘムの街の2歳以下の幼児を殺戮するように、部下の兵隊に命じるのだが、斯様な歴史的事実は史実としては無く、イエスがベツレヘムの厩舎で生まれた事実も無いと言ってもよいであろう。神格化されたイエス・キリスト伝の最たる映像として、この映画は秀逸な物語としてうかがえる壮大な作品である。




 

 




 1988年公開の米国映画『最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)』は、マーティン・スコセッシ監督による救世主「イエス・キリスト」伝というよりも、極めて人間的な世界と、超人的な世界を内面に内包した姿を描いた人間イエス伝であり、ナザレのイエスの物語なのであるが、原作はニコス・カザンザキスによる同名小説。



 この映画の凄いところは、特殊効果を極力避けて、直接的な撮影方法による画面を作り上げているところだ。ロケ地には紀元一世紀のユダヤ及びガラリヤを鮮明に再現している。細部の美術セットも完璧であり、マグダラのマリアの衣装や刺青も史実としての研究成果として表現されているのが民俗学的に大変興味深い。


 配役もその俳優たちの演技力もすばらしいに尽きる。ナザレのイエス役にウィレム・デフォー 、イスカリオテのユダ役はハーヴェイ・カイテル、マグダラのマリヤにバーバラ・ハーシー、ピラト総督はデヴィット・ボウイなどなど・・・・・・、また、音楽も秀逸を極めておりピーター・ガブリエルが担当しているのだが、古代の楽器や中東の音楽をかなり研究した成果だと感じる傑作。


 原作者のニコス・カザンザキスの言葉が、先ず映画の冒頭に現れる。「神への到達を目指したキリストは、極めて人間的なものと、超人間的なものの、両面を持っていた。このキリストの二元性は私にとって、以前から尽きぬ謎であった。若い頃から私の悩みは、精神と肉体との間のあくことの無い苛烈な闘いから生まれてきた。私の魂はその二つの力が衝突する戦場である。」


 この言葉が 映画の芯となり核となって展開しているのが、映画『最後の誘惑』なのであるが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書のエピソードを踏まえながらも、福音書とは違う史実に近いと思われる着想から大胆なフィクションとして物語は描かれている。











 映画は、最初、ナザレのイエスが大工道具を扱い磔刑用の十字架を作る場面から始まる。そこへ、イスカリオテのユダがかつての同志であるイエスを迎いに来る。聖書では熱心党と呼ばれるイスラエルの第四の宗教派閥であるゼロテ派は、ローマ支配からユダヤ解放の抵抗組織でもあり、政治的には過激派、武力的宗教集団内部の暗殺団「シッカリ(シッカ=短刀)」にユダは所属している。


 かつて革命の同志たるイエスをユダは誘いに来るが、イエスは今ではローマ兵に加担して磔刑用の十字架を作っていた。ユダは裏切り者としてイエスの命を狙うようになるが、やがてイエスの第一の弟子となる。


 ボクもイスカリオテのユダはゼロテ派で 、イエスもこの過激派内部で活躍していたと思われる文献を読んでいたので、まずまずはこの物語の着想にあらためて瞠目されてしまう。


 この映画でイエスが奇跡を民に施す場面はファンタジックであまり好きではないのだが、終盤になるとイエスが十字架に架かるのが、イザヤ書による預言の成就の為だと神から託宣され死を選択するのも、ボクの思い描いていた想像力と合致しているので興奮してしまう。


 しかし、意外な展開を映画は後半部で示してしまう。磔刑のキリストは死に至る時間の中で、マグダラのマリヤと性的に交渉し愛し合う。マグダラとは性的な愛が過去と現実には行われないことで憎しみを受けるイエスだったのだが、マグダラとの愛を死に至る夢想の中で成 就するのだが、マグダラは夢想の中で死に至る。


 この夢想はマグダラの死で終わらずに、ベタニアのマルタとマリアの家にやがてイエスは訪れ、やがてベタニヤのマリヤと家庭を持ち子宝に恵まれて穏やかな生活を過ごすのであった。この夢想は妄想ともサタンの誘惑ともいえる時空間なのだが、美しい天使に導かれて過ごすこの時間と空間で、イエスはサウロ(パウロ)と問答し、イスカリオテのユダと葛藤する場面は至極秀逸なものと感じたのだが、世の中の現世キリスト教世界では、当時センセーショナルな問題作として衝撃を与えた映画作品というわけであるが、あらゆる面から観て優れた映画作品であることは確かなことである。








 


 十字架による磔刑とは、古今東西にみられた拷問の一つであり、残酷無比の刑罰なのであるが、磔が肉体に与える生理学的な状態、それが死にまで至る解剖学的な状況は意外に知られていないであろうと思われる。
  


 ここに紹介する磔刑はローマ帝国の時代による拷問にして刑罰である。ご承知の通り、ナザレのイエスは十字架による磔刑で死に及んだ。このことをよく理解するには、2004年度米国映画作品の『パッション(The Passion of The Christ)』をご覧になることが、かなり知識としては近道となるでしょう。

 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書にもイエスが十字架により処刑される場面が描写されているが、メル・ギブソン監督による「イエス・キリスト」の最後の12時間を徹底的なリアリズムで描いた『パッション』は、・・・・・・この映画作品のなかで如実に拷問の凄惨さをリアルな映像で表現されている。 



 この映画が公開されて、映画館で観劇していたご婦人が気絶されたと巷間伝わるのだが、ボクも二度ほど直視できずに目を瞑るシーンがあり、かつて公開された如何なるホラー映画の幻想的にして残酷で残虐なシーンよりも過激である。その史実としての「イエス・キリスト」の拷問と刑罰の実態があまりにもリアル過ぎて、戦慄と震撼を与える容赦ない演出には驚愕のあまり脱帽してしまう。


 さて、磔刑による拷問はあまりにも緩慢な呼吸困難を伴い、やがてくる窒息死を主に目的とした、極度に全身の苦痛を長引かせる為の、あまりにもサディズムの至高と呼んで間違いない加虐の極地といえよう。生理学的、解剖学的に、この磔刑についての物理的な苦痛と死に至る過程は・・・・・・



 ・・・・・・まず、磔刑の受刑者は、鞭を打たれることになっていたが、この鞭は強力なもので、打たれた者は皮膚が裂け出血するほどである。場合によっては打たれた者が死亡することがあり、それでは、この後の死刑執行が無意味になってしまうので、程々に打たれたものであろう。



 鞭打ちの後、磔刑の受刑者は刑場まで自力で杭を運ぶことになっていたと伝わるが、受刑者が先に行われた鞭打ちで杭を運べない状況の場合、通りがかった者を徴用して運ばせたこともあったようである。ナザレのイエスもマタイ伝の第27章32節にあるように、シモンというクレネ人にイエスの十字架を背負わせたと記述がある。



 杭(または十字架)は寝かされた状態で、まず受刑者は杭に釘で固定される。衣服は奪われ裸にされる。刑架は初めから十字架型になっている場合と、縦木と横木が分離されている場合があり、後者の場合はまず横木に受刑者の広げられた両手首を釘打ちされて、その状態で横木を吊り上げ、予め垂直に立てられた縦木に組み込まれて十字型、若しくは、T字型にされて架刑された。その後に脚部を釘打ちされたようだ。


 キリスト教絵画の作品にある磔刑図では、よく手のひらを釘で磔台に打ち付けた姿が描かれるが、手のひらに釘を打つと、体重を支えきれず手が裂けて体が落ちてしまうので、手首の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)と手のひら付け根の手根骨(しゅこんこつ)との間に釘が打たれた。この位置であれば自重を支えることが可能であり、骨折もなく、出血も比較的少量で済む。この位置に釘を打つと正中神経が破壊され、手と腕は麻痺する。更に脚を45度曲げた状態で足を打ち付ける。これにより杭が引き起こされてからは、受刑者は不自然な姿勢を取らざるを得なくなり、自重を支えるのが困難となる。







 フラ・アンジェリコ、アンドレア・マンテーニャ、アルブレヒト・デューラー、ミケーレ・ダ・ヴェローナ、ラファエロ、ルーカス・クラナハ、マティアス・グリューネバルト、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ティントレット、エルグレコ、バオロ・ヴェロネーゼ、ヤン・ブリューゲル、ビーテル・バウル・ルーベンス、グイド・レーニ、アンソニー・ヴァン・ダイク、ディエゴ・ベラスケス、レンブラント、フランシスコ・ゴヤ、ピエール=ポール・ブリュードン、ウジェーヌ・ドラクロワ、ポール・ゴーガン、マックス・クリンガー、エゴン・シーレなどがキリストの磔刑を描いているが、全て手のひらに釘を刺した描写となっているが、ルーベンスの絵のように足元に板がつけられた場合意外は前述したように自重を支えきれない。







 あのサルバドール・ダリですら見事なリアリズムの極致で描いた磔刑図でも、物理的には、生理学的にも、解剖学的に際しても、科学的見地からは正しく無い構図といえるキリスト磔刑図を表している。1907年の作品で、「イエス・キリスト」の磔刑図を描いたロヴィス・コリントは手のひらに釘打ちは偉大な過去の画家たちと同じであるが、手首を縄で絞められている描写があり、これなら身体の自重を支える補強となるから、理屈としては通る構図である。


 メル・ギブソン監督による『パッション』も、この部分のリアリズムを補強するために、手のひらに釘打ちして手首を縄で緊縛する措置とする映像としてある。



 さて、杭が引き起こされ立てられて固定されると、受刑者の両腕に自重がかかり、受刑者は肩を脱臼する。その結果、胸に自重がかかり横隔膜の活動が妨げられる。受刑者は次第に呼吸困難になり、血中酸素濃度は低下する。血中酸素濃度の低下により心臓は心拍数を高め、これが血中酸素濃度の低下に拍車をかける。やがて受刑者の全身の筋肉は疲弊し、酸素が欠乏し、心筋は疲弊し尽くして機能を停止し、受刑者はやがて緩慢に長時間かけて絶命に至る。



 健康で肉体が頑強な男子であれば、十字架上で三日間は生き延びた例が実際の記録に残っている。但し、少しでも早く死ねたら楽なのが磔刑なのである。ナザレのイエスの時代には刑場で六時間ほど十字架に晒し、とどめに足首の骨を大ハンマーで打ち砕いて終わりなのである。



 足の骨を打ち砕くことにより、身体は完全にぶら下がった状態になるのだが、こうなると全く呼吸できなくなるので死んでしまう。それまで足が支えられていることで、受刑者は呼吸の為に背伸びをすることで空気を僅かに吸収できていたのだ。ゴルゴダの丘にはナザレのイエスと、その左右に受刑者がいたのだが、この二人の受刑者は予定通りにハンマーで足の骨を打ち砕かれてとどめをさされている。



 しかし、ナザレのイエスは六時間の磔刑で既に死んでいて、それを確かめる為に、ローマ兵は槍でイエスの胸を刺す、すると血が溢れ、その後、水が流れたと、ヨハネ伝の第19章33章にある。



 映画の『パッション』では、ナザレのイエスが六時間で死に至った経緯を鞭打ちの為だと言わんばかりに、かなり酷い鞭打ち場面を執拗に描写している。肋骨がうかんで見えるほどの皮膚が破れた状態の外傷をまざまざと映像に映し出す、この外傷によれば、やがて胸腔内で肺を包み込んでいる胸膜が炎症を起こし、水のような体液が溢れて肺を圧迫する。



 つまり、この胸膜炎が磔刑による呼吸困難に更なる拍車をかけるという訳なのである。新約聖書の描写あるいは映画の『パッション』によるイエスの胸に刺した槍をローマ兵が抜くと、「水と血」が流れたという場面は解剖学的にも、生理学的にも、物理的にも正しい描写なのである。













 『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる歴史小説である。この原作から1951年に米国でマーヴィン・ルロイ監督により映画化されている作品は、主演がロバート・テイラー、デボラ・カーによるスペクタル超大作の古典史劇。


 小説及び映画のタイトルにある『クォ・ヴァディス』の意味と、その由来となるタイトルは、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節~38節にある場面にある・・・・・・



 ・・・・・・シモン・ペテロ言ふ、「主よ、何處にゆき給うか」、イエスはそれに答えて、「わが往く處に、なんぢ今は従ふこと能はず、されど後に従はん」、 ペテロがそれに言え、「主よ、いま従ふこと能はぬは何故ぞ、我は汝のために生命を棄てん」、 そしてイエスは答へ、「なんぢ我がために生命を棄つるか、誠にまことに汝に告ぐ、なんぢ三度われを否むまでは鶏鳴かざるべし」



 最後の晩餐でイエスがユダに「なんぢが為すことを速やかに為せ」と伝え、ユダが去った後に、残った弟子たちにイエスは「なんぢらは我が往く處に来ること能はず」と伝える。そして「わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし互に相愛する事をせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」



 ・・・・・・と、イエスが弟子たちに述べた後に、ペテロが「主よ、何處にゆき給うか」という問いかけた言葉のラテン語が、“Quo Vadis Domine (クォ・ヴァディス・ドミニ)から『何處にゆき給うか(クォ・ヴァディス)』”がタイトルとなっている。









 さて、映画の『クォ・ヴァディス』からあらすじを述べながら、話を続けるが、物語はナザレのイエスがゴルゴダの丘で磔にされてから30年が過ぎていた・・・・・・、時は紀元64年初夏、映画の冒頭場面はローマへ通じるアッピア街道を皇帝ネロ治世下の軍隊長マーカス・ヴィニキウス率いるローマ軍第14軍団がローマに凱旋するところから物語は始まる。



 この映画はローマへ通じるアッピア街道が重要な意味をもっている。映画の最終場面でもローマを去るマーカス・ヴィニキウスはこの街道を下っていく。映画の主役はロバート・テイラー演じるマーカスである。マーカスはサン・セバスティアーノ門に向かって軍団を引き連れて往くが、ローマのひとつ手前の宿駅に足止めを命じられる。そこで、今は引退した老将軍のはからいで一夜を過ごす。



 老将軍の養女リジア(デボラ・カー)にマーカスは一目惚れしてしまうが、リジアはマーカスに惹かれながらもマーカスの戦(いくさ)話を強く嫌み、マーカスの求愛を拒むのであった。それはリジアがキリスト教の愛の思想に深く触れていて、マーカスへの愛よりも、キリスト教の信仰を優先させたからである。



  リジアは或る王国の姫で、ローマ帝国の人質であったのをマーカスは知り、皇帝からの褒美としてリジアを要求する。ローマの宮廷に攫われたリジアは優雅な暮らしより、信仰ある生活を望みローマ城下を脱走してしまう。マーカスは魔術師の力を借りてリジアの探索を計り、ローマ唯一の剣闘士を護衛に三人のクリスチャンが密かに集うカタコンベに潜入する。


 現在、遺跡として残るカタコンベはアッピア街道沿いに幾つも残存している。有名なのはサン・セバスティアーノ大聖堂のカタコンベとサン・クレメンテ教会のカタコンベであろう。映画ではマーカスが潜入したカタコンベにタルソスのパウロとペテロがイエス・キリストの愛の教えを説いていた。



 パウロもペテロもキリスト教者たちもアッピア街道からローマへの伝道の道とした。ローマのサン・セバスティアーノ門からカプア、ベネヴェント、港町ブリンディシまで600kmであり、この港からギリシアへと望むことができる。これを逆にクリスチャンはローマへと街道を上ってきたのだ。



 マーカスはリジアを奪還すべくカタコンベの集会後に跡を着けるが、リジアの忠僕の護衛に倒され、マーカスの護衛の剣闘士は殺されてしまう。気絶したマーカスはやがてリジアの介抱で目を覚まし、二人の愛は確かめられ心開いたリジアであったが、ペテロの教えにマーカスは対立して、マーカスとリジアは結局、愛の破局を迎えてしまう。


 ローマに帰還したマーカスはリジアへの愛を断ち切った思いで過ごしたが、或る日、ローマに大火が起きる。これは歴史的事実でもあり、映画では皇帝ネロの暴虐的仕業として展開させているが、マーカスは燃えるローマ郊外の街を見てリジアの安否が気になり、皇帝王妃の阻止を振り切りリジア救出に奔る。二頭立ての戦車を駆けてアッピア街道をマーカスは奔る。それを王妃の命令で追う戦車隊の活劇シーンは『ベン・ハー』の戦車競争を彷彿とさせる活劇となる映像描写となる。



 猛火のローマ市街から市民を助けながリジアを救出したマーカスだが、ネロは自らの放火をクリスチャンに罪を着せて迫害する。この姦計にマーカスもリジアも多くのキリスト教信者たちも囚われの身となる。この迫害から逃れたペテロは連れの少年ナザリウスとアッピア街道を下って逃げて往った。



 ギリシアへ逃れるペテロに主イエスが霊的に現れる。姿は見えぬが聖霊は強くペテロに呼びかける。ペテロは畏れ・・・・・・「Quo Vadis Domine 『主よ、何處にゆき給うか』」と呟く、主はナザリウス少年の口を借りて斯く述べる。「ペテロよ!ローマの民は汝の声を求めている。汝が民を救わねば、わたしが二度目の十字架につこう」・・・・・・、この言葉に30年前の後悔がペテロを大きく包んでいく。



 ローマではクリスチャンたちへの弾圧が押し迫っていた。闘技場にライオンが放たれネロの公開処刑が行われようとしていた。ペテロはローマに凱旋して死を前にした信者たちへ神の祝福を述べて囚われの身となる。そしてヴァチカンで逆さ十字の磔刑に処され、クリスチャンの多くもライオンの餌食、磔の火炙りと殉教の道を辿っていくのである。



 マーカスとリジアの処刑は更に壮絶を極めたものとなる。だが、しかし、神の御業は、この窮地に奇跡的な力を及ぼすのであった。



 ペテロが主と出逢ったアッピア街道の道筋には、今ではドミネ・クォ・ヴァディス教会が建てられている。教会の礼拝堂内部には、ペテロの前に現れた時のイエス・キリストの足跡が遺跡として残されている。





 イエス・キリストの「キリスト」という言葉の意味は、一般的に「救世主」と日本では訳されているが、この「キリスト」という言葉はギリシヤ語で、これはヘブライ語の「メシア」という言葉の翻訳である。この言葉は「頭に香油を注がれた者」という意味が含まれている。メシアに対応するギリシヤ語はクリストス(Χριστος)で、「キリスト」はその日本語的表記であるヘブライ語のマーシアハ(משיח)の慣用的カナ表記とされる。メサイアは、Messiah の英語発音となる。


 「頭に香油を注がれた者」とは如何なる意味があるのか、以下に詳述する。

 

 イエスはダビデの末裔である。ダビデとはイスラエルに統一王国を成立させた最初の王である。ダビデ王は紀元前11世紀末に王朝を実現するにあたり、宮廷付きの預言者ナタンが定式化したとされる王の地位についての考え方は、以下のようにまとめることができる。

 
 「ダビデの子は、即位式の時に、香油を頭に注がれて、神の子となる」


 ここには四つの原則がある。それは、①王はダビデの子である。②王(の候補者)は即位式をへて王となる。③王は油を注がれた者である。④王は神の子である。


 王は「ダビデの子」であり、ダビデの子孫でなければならないの が第一の原則。血統に基づく王位継承は、この原則により、王位をつぐ継承者が限定される。血統による原則は先天的な基準によるものであり、不要な権力争いを避けるには大きな効果がある。


 ダビデの子孫であれば誰でも王ではなくて、即位式の時に神の子となるのが第二と第四の原則。王が一人であり、その保証とされるのが即位式である。そして即位式の時に「王は神の子」という宣言が行われた。エジプトやバビロニアでも王の即位式では、祭祀が神の託宣を述べて、「王は神の子」と宣言して、「あなたは私の子であり、私はあなたの父である」といった表現が用いられていた。


 王は強い権力をもつために、王は「神の子」とされた。しかし、王を「神」としてしまうことには、大きな問題 が生じる。「王は神ではない」ないし「神はあの王ではない」という議論が必ず発生して、これを封じるには困難が生じるからだ。しかし王を「神の子」とするならば、こうした反論を避けて、王は「神の子」であって、「神」そのものではないと言うことができ、巧みな論理的選択を求められるからだ。


 しかもこのことは、「神の子」である王は単なる人ではなく、「神の子」は人以上の存在という論理も起こる。即位式の時に王が「神の子」と宣言されることにより、「神の子」は一人しか存在しないと保証される訳で、人ではなく、人以上の「神の子」は王だけであり、他者が及ばぬ絶対的な権威がその王に属することになるのだ。


 そして、この即位式の儀式に、王位継承者には「頭に香油を注 ぐ」ということが行われていたようで、・・・・・・これが第三の原則。この儀式はエジプトにおいて行われていた行為を採用したものらしい。『出エジプト記(28章41節)』にモーセの兄アロンが、『サムエル記下(2章4節)』にダビデが、この儀式が行われる描写がある。



 さて、このことから「頭に香油を注がれた者」という表現が、ヘブライ語の「メシア」という言葉に凝縮されている訳なのである。こうした表現はダビデ王朝の王位継承がイデオロギーに定式化されたことにもなる。このメシアという言葉が古典ギリシヤ語に訳されて「クリストス」→「キリスト」となった次第であるから、本来の意義に「救世主」という言葉には、メシアという言葉との意味合いには関連性が殆ど無いとも謂える。



 新約聖書の“ナルドの香油”の逸話は、マタイ伝26章1-13、マルコ伝14章3-9、ルカ伝7章36-50、ヨハネ伝12章1ー8節に登場するが、この逸話は旧約聖書のメシアの伝説の前提になった話題で、マグダラのマリアがイエスに油を注ぐエピソードになっているのであろう。

 




 さてさて、映画史上初のシネマスコープ作品であり、この大型スクリーンによる映写方式を開発して、その記念碑的第一作となったのはハリウッド映画の『聖衣(The Robe)』である。壮大なスケールで綴る大スペクタル史劇は、1953年度アカデミー賞四部門を受賞し、構想10年、制作費450万ドルの巨費を投じて、延べ5000人にも及ぶ出演者を動員して製作された。

 イエス・キリストが処刑された時の身に纏っていた「聖衣」をめぐり、イエスの愛にふれ、イエスの教えとその信仰に目覚めたローマ護民官の姿を、壮大なスケール、壮麗な演出、荘厳な物語で描く感動的な巨編。監督にヘンリー・コスター、主演にリチャード・バートン、ジーン・シモンズが登場する。


 この映画ではナザレのイエスは二度登場するが、初めは姿が映されず、次は十字架を背負いゴルゴダの丘へ向かう場面と、磔刑にされるその姿は顔は写されることが無い。映画のあらすじを述べると、序章では ティベリウス皇帝治下のローマ。護民官・マーセラス・ガリオ(リチャード・バートン)は奴隷市場でギリシヤ人の奴隷・ディミトリアス(ヴィクター・マチュア)を手に入れる場面から始まる。

 奴隷市のセリで、次期皇帝のカリギュラ(シェイ・ロビンソン)は、剣闘士として見込んで奴隷ディミトリアスを金貨50枚の値を付けるが、マーセラスはこのギリシア人の奴隷に金貨3000枚で競り落とし、カリギュラの恨みを買ってしまったため、彼は即座にエルサレムに左遷されてしまう。愛するダイアナ姫(ジーン・シモンズ)をローマに残し、マーセラスはディミトリアスを連れてエルサレムへと向かう。


 エルサレムに到着したマーセラス一行はユダヤ人の過ぎ越しの祭で、熱烈に支持されるイエスの姿を遠方に伺う。何故かディミトリアスはイエスの姿に強く惹かれて、自分の真実の主人とはイエス・キリストであると直感してしまう。しかし、ローマ総督ピラトはそれから間もなくイエスを捕らえようとする。

 ディミトリアスはイエスを救おうと城下を彷徨うが、時すでに遅くイエスは捕らえられてしまっていた。そこで主人の護民官であるマーセラスにイエスの救済を要望するが一蹴される。それどころか、ピラトはマーセラスにイエスの処刑を命じるのであった。


 十字架を背負い倒れたイエスに鞭をふるうマーセラスの部下を、ディミトリアスは阻止して助けようとするが気絶してしまう。気がついた時には既に丘の上でイエスは十字架上であった。マーセラス達の一行は磔刑の間に賭け事に高じるが、一人の兵隊がイエスの身につけていた衣を銀貨の代わりに賭けて、この博打にマーセラスは勝つ。

 ところがキリストが最期に身に着けていた衣(聖衣)に手を触れたとたん、悪夢と気の病に陥り、「聖衣」はディミトリアスが奪ってマーセラスの元から逃亡してしまう。やがてティベリウス皇帝により召喚されたマーセラスは「聖衣」の奪還を命じられてパレスチナへ向う。

 キリスト教への迫害と「聖衣」を奪還して病を癒そうとディミトリアスを探していたが、彼は次第に神への信仰に目覚めいく。やがてキリストの教えを説く側に回ったマーセラスは、ペテロ(マイケル・レニー)とディミトリアスに従いローマに布教の旅へ出るのだが、皇帝ティベリウスが死に今やローマ皇帝は悪名高きカリギュラがローマを支配していた。


 ローマではキリスト教徒弾圧のために、カリギュラに捕らわれたティベリウスをマーセラスは救出に成功するものの、追っ手のローマ騎馬団にティベリウス一行を助けるために一人投降する。やがてローマの法廷でダイアナ姫と共に悲劇的な最期を迎えるのだった・・・・・・。


 ロイド・C.ダグラスのベストセラー小説を原作にしたこの作品は、翌年に『ディミトリアスと闘士』として続編が映画化される。マーセラスとダイアナは「聖衣」をペテロに託して処刑されたが、ディミトリアスはかつて奴隷市場で「剣闘士(グラディエーター)」となるところをマーセラスに救われるのだが、運命のいたずらはカリギュラによりコロシアムへ引きずり出されることに・・・・・・


 ・・・・・・リドリー・スコット監督による映画『グラディエーター』の原点が、1954年のこの映画作品に燦然と垣間見ることであろう。