映画のなかのイエス その5『最期の誘惑』 | 空閨残夢録

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 1988年公開の米国映画『最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)』は、マーティン・スコセッシ監督による救世主「イエス・キリスト」伝というよりも、極めて人間的な世界と、超人的な世界を内面に内包した姿を描いた人間イエス伝であり、ナザレのイエスの物語なのであるが、原作はニコス・カザンザキスによる同名小説。



 この映画の凄いところは、特殊効果を極力避けて、直接的な撮影方法による画面を作り上げているところだ。ロケ地には紀元一世紀のユダヤ及びガラリヤを鮮明に再現している。細部の美術セットも完璧であり、マグダラのマリアの衣装や刺青も史実としての研究成果として表現されているのが民俗学的に大変興味深い。


 配役もその俳優たちの演技力もすばらしいに尽きる。ナザレのイエス役にウィレム・デフォー 、イスカリオテのユダ役はハーヴェイ・カイテル、マグダラのマリヤにバーバラ・ハーシー、ピラト総督はデヴィット・ボウイなどなど・・・・・・、また、音楽も秀逸を極めておりピーター・ガブリエルが担当しているのだが、古代の楽器や中東の音楽をかなり研究した成果だと感じる傑作。


 原作者のニコス・カザンザキスの言葉が、先ず映画の冒頭に現れる。「神への到達を目指したキリストは、極めて人間的なものと、超人間的なものの、両面を持っていた。このキリストの二元性は私にとって、以前から尽きぬ謎であった。若い頃から私の悩みは、精神と肉体との間のあくことの無い苛烈な闘いから生まれてきた。私の魂はその二つの力が衝突する戦場である。」


 この言葉が 映画の芯となり核となって展開しているのが、映画『最後の誘惑』なのであるが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書のエピソードを踏まえながらも、福音書とは違う史実に近いと思われる着想から大胆なフィクションとして物語は描かれている。











 映画は、最初、ナザレのイエスが大工道具を扱い磔刑用の十字架を作る場面から始まる。そこへ、イスカリオテのユダがかつての同志であるイエスを迎いに来る。聖書では熱心党と呼ばれるイスラエルの第四の宗教派閥であるゼロテ派は、ローマ支配からユダヤ解放の抵抗組織でもあり、政治的には過激派、武力的宗教集団内部の暗殺団「シッカリ(シッカ=短刀)」にユダは所属している。


 かつて革命の同志たるイエスをユダは誘いに来るが、イエスは今ではローマ兵に加担して磔刑用の十字架を作っていた。ユダは裏切り者としてイエスの命を狙うようになるが、やがてイエスの第一の弟子となる。


 ボクもイスカリオテのユダはゼロテ派で 、イエスもこの過激派内部で活躍していたと思われる文献を読んでいたので、まずまずはこの物語の着想にあらためて瞠目されてしまう。


 この映画でイエスが奇跡を民に施す場面はファンタジックであまり好きではないのだが、終盤になるとイエスが十字架に架かるのが、イザヤ書による預言の成就の為だと神から託宣され死を選択するのも、ボクの思い描いていた想像力と合致しているので興奮してしまう。


 しかし、意外な展開を映画は後半部で示してしまう。磔刑のキリストは死に至る時間の中で、マグダラのマリヤと性的に交渉し愛し合う。マグダラとは性的な愛が過去と現実には行われないことで憎しみを受けるイエスだったのだが、マグダラとの愛を死に至る夢想の中で成 就するのだが、マグダラは夢想の中で死に至る。


 この夢想はマグダラの死で終わらずに、ベタニアのマルタとマリアの家にやがてイエスは訪れ、やがてベタニヤのマリヤと家庭を持ち子宝に恵まれて穏やかな生活を過ごすのであった。この夢想は妄想ともサタンの誘惑ともいえる時空間なのだが、美しい天使に導かれて過ごすこの時間と空間で、イエスはサウロ(パウロ)と問答し、イスカリオテのユダと葛藤する場面は至極秀逸なものと感じたのだが、世の中の現世キリスト教世界では、当時センセーショナルな問題作として衝撃を与えた映画作品というわけであるが、あらゆる面から観て優れた映画作品であることは確かなことである。