世界で最初に『不思議の国のアリス』を映画化したのは、1903年の、「アリス・イン・ワンダーランド」である。もちろんサイレント映画なのだが、監督はセシル・ヘプワースとパーシー・ストウ、アリス役はメイ・クラーク。
この映画は上映時間が15分にも及ばない作品で、アリスが、ウサギの穴に入り、身体が何度も大きくなったり小さくなったり、変身を繰り返す場面を巧みにトリック映像で演出しているのには関心した。
1915年のW.W.ヤング監督、アリス役にビオラ・サヴォイの「アリス・イン・ワンダーランド」は、映像の技術的トリックこそないのだが、ジョン・テニエルの挿絵を美術的に応用した演出は見事である。役者が不思議の国キャラクターの着ぐるみで登場するが、アリスの自分が流した涙でネズミと泳ぐ場面(映画では演出上は川に流される)のネズミの着ぐるみがネズミにはあまり見えなかった以外は美術的には、とてもよくできている作品。
両作品ともルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を忠実に物語として映像化しているのだが、この二作を一緒に納めDVD化されて近年発売され二作品で収録時間が60分の映像である。
さて、近年では2010年に公開されたティム・バートン版の「アリス・イン・ワンダーランド」もDVDで見てみた。こちらはルイス・キャロルの世界のアリスというよりは、ティム・バートンの世界のアリスである傑作ファンタジーである。さらにアリスが19歳になって再び『不思議の国』と『鏡の国』へ舞い戻る設定となり、少女から大人へのビルドゥングス・ロマン(成長譚)にもなっている。
主人公のアリス役のミア・ワツコウスカはまるでジャンヌ・ダルクを思わせるような凛々しさと美しさを感じさせてくれる北欧風の美女。存在感としてはジョニー・デップのマッド・ハッターの演技力が一際印象深いであろうが、赤の女王を演じるヘレナ・ボナム=カーターの怪演ぶりもさることながら、白の女王を演じるアン・ハサウェイの美しさにも目を瞠る。
トゥイードルダムとトウィードルディーやチェシャ猫などのお馴染みのキャラクターも、実写とモーションキャプチャという映像技術で存在感が活き活きとしているのが面白かったが、ハンプティ・ダンプティが登場していなかったのがチョイト不満な気分でもある。
『不思議の国のアリス』、『鏡の国のアリス』を書いたルイス・キャロルは、本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンといって、オックスフォード大学の数学と論理学の教師だった。また英国国教会の聖職者でもあった。イギリスのチェシャー地方のデアズベリーで1832年1月27日に生まれた彼は、父親は牧師で、ドジソン家には11人の子供があって、チャールズことルイス・キャロルは第3子の長男。
キャロルは10代の前半から詩を書いていた。他人の作品のパロディーや、意味のない言葉遊びが、詩作の特徴であった。13歳の時に書いた詩が現存するが以下にその作品を紹介する。
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ぼくの妖精
高橋康也 訳
ぼくについている妖精が
眠っちゃいけないって言うんです
あるとき怪我をして叫んだら
「泣いたりしてはいけません」
つい楽しくてニヤリとすれば、
笑っちゃいけないって言うんです
ある時ジンが飲みたくなると
「ものを飲んではいけません」
ある時ご飯が食べたくなると
「ものを食べてはいけません」
勇んで戦(いくさ)に馳せ参じたら
「喧嘩をしてはいけません」
悩み疲れてぼくは訊く
「していいこと なにかあるの?」
妖精しずかに答えていわく
「質問してはいけません」
《教訓》 汝すべからず
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「汝すべからず」という強迫観念はキャロルに終生つきまとったようで、一生を独身で通したのにも斯様な心理が働いていたかも知れない。・・・・・・それにしてもこのような強迫観念をすりぬけて、自分の願望を満たしてくれたのはアリス・リデルをはじめとする少女たちであった。そして、この少女たちを喜ばせるために不思議な物語を創作したのである。
ルイス・キャロルは作家としての創作活動よりも、写真家として多くの作品を撮影していて、技術的にも当時に於いては有数な腕前であった。1855年に親戚のおじさんが写している写真機に興味を覚えて、翌年にロンドンで写真展を見て更に刺激され、カメラ一式を購入する。
1880年に何故か突然に写真撮影を辞めるまで、キャロルは24年間にわたり少女たちを撮りつづけた。そのネガは三千枚に及んだらしいのだが、多くは破棄されたらしく、残った映像は1988年に新書館から刊行された『ヴィクトリア朝のアリスたち(ルイス・キャロル写真集)』に収められている。
さてさて、 1933年に「不思議の国のアリス」は3度目の映画化となるが、これはボクは観ていない。この作品にはゲイリー・クーパーやケイリー・グラントなどが配役されているので、一度みて観たいものである。
1951年のディズニーによるアニメーション映画である「ふしぎの国のアリス」が、多分、アリスという映像的に視覚的な効果が大衆のイメージに印象づけた作品であると思われる。アリスのイメージとしてのファッションはこの映画により大きく反映しているからだ。
1988年のポーランドのアニメーション作家であるヤン・シュヴァンクマイエルの作品である「アリス」は特筆すべき映画であろう。2010年にティム・バートンが「アリス・イン・ワンダーランド」を実写とモーションキャプチャで映画化するが、この映画とは対比をなす作品ともいえる。
シュヴァンクマイエルの「アリス」は、実写と人形、縫ぐるみ、剥製などのオブジェをつかい3年の歳月をかけてアニメ化した長編映画である。
実写に登場するのはアリスと子豚、鶏、針ネズミくらいで、あとは布製、木製、ブリキ、セルロイドなどの人形に、剥製標本の動物たち、紙製のトランプの王様と女王である。また芋虫は靴下だったり、シュールレアリスム的なオブジェも登場するのが見どころ。
この映画では、アリスが黒いインキを飲むと小さくなるが、小さくなったアリスはお人形になるのも面白い演出効果であろう。クッキーを食べて大きくなったアリスは、巨大な人形になって、まるで蛹からかえるように等身大のアリスが人形から抜け出すのもまたまた面白い。
ボクが思うに幼少の子供たちには、現代的なSFX映画である「アリス・イン・ワンダーランド」よりも、ヤン・シュヴァンクマイエルの古典的な特撮作品である「アリス」のほうが楽しめるであろうと感じた次第。それにしてもルイス・キャロルの描いた“アリス”という少女は夢幻的に魅力ある少女である。
その少女を描いた『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の挿絵画家であるジョン・テニエルのアリスが、数多い画家や映画のアリス像を越えられない気がしてならない。挿絵画家のアーサー・ラッカムの描いたアリスも素敵で可愛らしい少女なのだが、テニエルの描いたアリスはラッカムが描いた可愛い少女ではないし、少し不気味さを感じさせるのがボクは魅力あるキャラクターを造成していると感じている。
ルイス・キャロルの文学を高く評価しているシュルレアリストたちは、物語のアリスを夢想的に讃えているが、その中でもシュルレアリストしては傍系のクロヴィス・トルイユの描いた“アリス”の画は、個人的には大のお気に入りで秀逸だと感じている。この絵のアリスは後のディズニー映画を彷彿とさせる少女にも見えてくる不思議な画風なのである。
少女を画題にしてよく描いた作家のバルテュスの絵には部屋の中で少女、楽器、鏡、猫、犬などが印象的な装置として構図の中で収まっている作品が多い。少女も動物も愛らしい雰囲気で穏やかである。鏡をもつ裸体の少女に淫靡さは微小も感じられない。片膝を立てて、半睡の少女は太腿も、白い下着も露わだが、エロティックな視線を断たれた場所で描写されているように見える。
バルテュスの描いた少女は、夢を見る少女と夢の中の少女にも思える。少女の姿は演劇的な構図で描かれていて、お芝居の一場面を固定した印象もあるが、エロスが充電されていない無垢な描き方はバルテュスの筆致でもあろう。
バルテュスが描いた少女とルイス・キャロルが物語にした少女は、ともに男性的な視線から描かれているかもしれないが、テニエルの描いたアリスはエロティシズムが充填されない作風であるから、童話としての挿絵として、これからも、その絵姿が永遠にアリスという少女像として印象深く物語と連関して残るであろうと思われる。