『中島飛行機物語』ある航空技師の記録 前川 正男 | ぷぷぷ日記

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更新は思いついたとき。

光人社NF(ノンフィクション)文庫 2000年
中島飛行機って知ってましたか? 私が初めて見たのは、吉村 昭の『零式戦闘機』でした。三菱と中島が新型戦闘機(零戦)の受注で競り合った結果、機体設計が採用されたのが三菱、エンジンは中島のほうが優れていて採用となったと。本書によると、量産機ランキング1位は三菱の「零戦」で10450機。以下2位「隼」、3位九七式、4位「疾風」までは、機体・エンジンともに中島の設計です。エンジン製造はもとより、零戦の機体も3分の2は中島で製造されました。戦時下の航空機設計・製造について中島飛行機が第一の主要メーカーだったのです。中島抜きには三菱も零戦を造れなかったということですね。

手元の文庫本の帯には「エンジニアの戦い」「戦時増産下の航空機メーカーを描く!」の文字が躍っています。しかし、この著者は大変な秀才であったらしく、製作現場にはりつく技師ではない。管理部門に昇って工場内外へ監査・技術指導や交渉のため出入りし、より大きな視点から製造業界内外の事情とダイナミズムを散見できる立場にあった。日本の製造技術が戦争特需によってどのように勃興していったかということも目撃しているのだ。


たとえば招集中は、二等砲兵から試験を受けて抜群の成績で技術将校となり、光機工場や電機工場の管理についた。そのおり、潜水艦が技術交流でドイツから持ち帰ったライカ・カメラを日本でも製造することになった。たまたま著者が知っていた「精機工学」という会社を推した。このことが、今日の世界のキャノンを育てることになるとはまったく気付かなかった。・・・と述べている。キャノン、当時の「精機工学」はパッとしない会社だったらしい。なんだか日経新聞のコラムに出てきそうなこのテの話もごろごろと入っていて目が覚めるようです。

中島飛行機の創業者・中島知久平の物語も驚異的なものがあります。知久平は、第一次大戦では海軍大尉として工場長に昇進し、ファルマン機を製作していた。技術将校として将来を約束されていたが、大正6年、33歳で退役して「中島飛行機研究所」を発足。「飛行機の研究製作は民間でなければ思うようにできない」と考えたからだ。金属製飛行機をいちはやく作り、大正13年には発動機の製造にも着手した。(この前年、三菱が発動機国産化に成功していた。)フランスの飛行機会社、発動機会社と契約、外国人技師も多数招いて生産技術の向上につとめた。昭和6年、満州事変勃発から航空機の需要が増し、会社は大きくなった。昭和9年、中島は米ダグラス社から輸送機の購入、カーチスライト社からは発動機の製造権、ノウハウも学んだ。米国にはコーネル卒の駐在員を置き、社員を実習のため渡米させた。このころ日本への技術移転は問題視されていなかったようだ。昭和13年、軍用の発動機工場・武蔵野製作所が完成した。ダグラス社の社長も米大使館武官も年に1,2回は見学に来た。(これがのちの大爆撃につながるのだが。)日本の技術は米・仏など連合国側から開戦直前まで学んでいたものだったのだ。

知久平はこのときすでに、終戦後の将来を予見している。「中島飛行機は、戦争に勝っても、負けても、いずれはつぶれる。勝てば飛行機はこんなにいらない。そうなったら、低馬力の自動車工場にするより仕方がないだろう。もしそうであっても、アメリカのフォードがダンピングしたらかなわない」。こんなセリフが昭和12年に発されていたとは、企業人の判断力おそるべし。 ちなみに中島は終戦後、富士自動車→プリンス→日産となってよみがえる。このときアメリカ航空業界視察などから学び、戦時下では生かし切れなかったことが貯えとして使えたのではないだろうか。

本書の最後の章は発動機工場・武蔵野製作所の大爆撃、壊滅。工場そのものの疎開を経て、終戦となる。昭和19年11月、初めて本土爆撃したB29は中島のエンジン「誉」とほぼ同馬力であったが、いわばターボつきで一万メートルの高度でも息切れしなかった。一方、中島のエンジンはターボまで手が回らず、高高度では馬力が半減してしまう。実は、中島でも昭和12年ごろからB29のようなターボつきのエンジン設計を開始していたが、完成が遅く、一部使用されたのみで真価を発揮しないまま終戦を迎えてしまった。これはアメリカと日本の厳然とした国力の差である、と著者は嘆く。また、航空機の数が少なすぎた。巨艦大和や武蔵を造らず、その分戦闘機をつくっておれば・・・とも述べている。実際、軍部は武蔵に続く3号・4号艦を空母として航空機時代に対応しようとしたのだが、それでも肝心の艦載機が足りなかった。

著者が中島に入社したのは日中戦争勃発の昭和12年。応召が昭和13年、召集解除となって中島復帰が昭和17年。夢中で航空発動機を造ってきて、昭和20年の終戦時には虚脱感で出社しなくなり、自然退職となったという。計算してみると22歳くらいから30歳くらいまで、20代のもっとも元気な時代を過ごしたことになる。技術者らしく、あまり感傷的にならない文章を組み立てて書かれているが、さすがに心中察してあまりある・・・という切ない部分もある。
ともあれ、貴重な体験がひとつの時代として語られ、当時のことを正しく認識するために、とても勉強になった。なにより、おもしろかった。またこんな本に出会えたらいいなと、思う。
中島飛行機物語―ある航空技師の記録 (光人社NF文庫)/光人社
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