続・続・続・続 色物のきわどさ・・最悪のお笑い作「佐村河内守の交響曲第1番」 | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

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テロワールにより造り手により 変幻の妙を見せるピノ・ノワールの神秘を探る

もはやどうでも良い話なのだが、しつこく少しだけ触れる。

佐村河内守が変身して記者会見に登場し、何やらしゃべっていたが、個人的には興味が無い。
先般コメントで紹介頂いた音楽家で東大准教授でもある伊東乾という人が書いた、
新垣隆を養護する記事の続編も読んでみた。

伊東乾は東大理学部で物理学を学んだ後に音楽家になったという経歴の人で、
新垣隆と知己があるそうだが、彼がいかに素晴らしい音楽家で、人格者であるかを説いている。
気持ちは分からないではないが、気持ちが悪い。

時系列をもって新垣隆が共犯者の意識なく偽ベートーベンに作品を
提供していたことを証明したとしても、わたしは作品そのものしか問題にする気にはならない。

ワインの造り手がいかに真面目に仕事をしていようが、自分の眼の前にある
たった1本のワインがどうであるかこそが最も重要だと考える。
あの作品を書いた作曲者が、実社会でどれだけ誠実な人だろうが、知ったことではない。

マスコミと大衆の話題は、障害者を装って他人が書いた作品で世間を欺いたところに
集中しているようだが、多くの人は作品そのものを聴いてはいないだろうし、
聴いていたとしても、それがなんぼのものか判断するだけの経験がある人は少数だろう。

しかし逆に、件の「佐村河内守の交響曲第1番」の作品としての本質を見破っている人は
決して少なくはないのも事実に違いない。

新垣隆に事実の告白を決意させたとされる、新潮45に掲載された野口剛夫の
「「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か」を購入して読んでみたが、
今回の顛末の全貌と作品の本質を言い当てている。
文章も含めて、見事としか言いようがない。

また、ジャーナリストの江川紹子が書いている記事にも同様のことが書かれている。
「クラシックの死」を招かないために~指揮者・大野和士氏の警告
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140209-00032494/

以下一部引用
 大野氏も、過去に知人から「一聴に値する」と勧められ、佐村河内氏のインタビュー記事と
 共にオーケストラ曲の録音を受け取ったことがある。が、佐村河内氏が人生の苦悩を語るのを
 見て、あまりの自己愛ぶりに「これはまずいのでは…」と感じた。録音も少し聴いてみたが、
 「いかにも劇伴(映画や劇の伴奏音楽)」で、それ以上聴く気持ちになれなかった、という。

悲観的な話になるが、わが国ではクラシック音楽の市場はすでに死に絶えているのではないか
と感じる。
劇伴もどきの音楽が、クラシック作品として受け入れられた現状を見て、
密かに冷笑していた人は少数ではないにしても、市場的には絶望的だ。
巻き添えにして申し訳ないが、ジャズもまた然りである。

21世紀前半に書かれた音楽のどの作品が、100年後にクラシック音楽として残っているだろうか。
わたしも含め少なからぬ人間が、100年後も光っている作品を探しているとしても、
それを見出すのは、1世紀前や2世紀前よりはるかに厳しい状況にあるのではないか。
これだけ音楽情報がデジタル化され、ネットを通じて入手しやすくなっているにもかかわらず、
である。

自分に審美眼が無いための杞憂であればそれに越したことはないのだが。