本日の訪問で、2年以上接遇させて頂いている方とお話している中で、

 

ようやく2年以上経過して、私にだけ話してくださった空白の生活歴を話してくださる場面に立ち会いました。

 

 

その方が語る人間の”こころ”とは、

 

高齢者に限らず、人が生きていく上で一番大切なものだと自負しており、

 

それが伝わるものがあるからして、生活に関する幸福感に左右されるといったニュアンスに近い内容でした。

 

 

その方は”こころ”と言い、見えないものをそう定義して、そして言語ではなくそれが人の目を見ればわかるという域でした。

 

確かにそうかもしれません。

 

その方の生活は、色んな方に出会ってきた経験から見て”こころ”が伝わるものだと話していました。

 

 

その方は、私の目を2年間みてきて、今日の出来事を話すという判断をされました。

 

 

私は、目でこころを捉える域には至りませんし、人から信頼してもらえる器かと言われたら正直自信はございません。

 

 

なるべく自己一致した面持ちで仕事にのぞむこと。

 

それが、私の経験から得た”こころ”の在り方だと思います。

 

自身のために、そして自身の連なる方たちのために。

「私はこの方のお世話をすることによって、元気をもらっている」

 

 

そう言われるご家族の方を、幾人かお見受けする機会があります。

 

医学的に、化学的に、誰かを支えることは、その方にとって心身の疲労を招くと考える視点だと思います。

 

ただ、家族様自身がそう思うことで気丈になれると思われるのならば、

 

私はその意志を守りつつ、専門的な目線で環境整備とリスク回避に努めること。

 

それが支援者としての礼節だと心がけています。

 

時々、医療関係者から、

 

「この状態なのに、なぜこの人にこんなことをさせている状態を、見過ごしているか」

 

とういような指摘を受けることもあります。

 

医療者としては、それは正論としての意見に相違ありません。

 

福祉として、本人の活力を削ぐことに、傷病との優先比較を検討してしまう自分がいます。

 

 

今日、家族の方が話していました。

 

「これを阻害されたら、私は生きたまま”死んでしまう”」と。

 

改めて、今日の仕事で「生きること」について考えました。

 

誰かを救う人を仕事としている方に、私が問いたいことは、

 

その人の心も活かすことができる手助けをできるか、これを自問自答して支援を頂きたいと思っています。

 

 

誰かがいるから元気になれる。

 

これは、まさしくお薬では対応されることのない、「人薬」なのでしょう。

退行現象とは、、

 

精神分析家ジークムント・フロイトによれば防衛機制のひとつであり、許容できない衝動をより適切な方法で処理するのではなく、自我を一時的または長期的に、発達段階の初期に戻してしまう事である。

 

 

wikipediaには、こう記載されています。

 

よく見られるのは、弟や妹ができた子が、お兄ちゃんお姉ちゃんになったとき、

 

母親への愛情が弟や妹へ優先的に流れてしまうことを本能的におそれるため、

 

お兄ちゃんお姉ちゃんが、おねしょや泣き出す等の幼稚な行動を起こしてしまうこと。

 

 

この、退行は子どもだけでなく、大人でも見られます。

 

そして、もちろん高齢者にも見られます。

 

本日、ちょうどそんな一面を見てきました。

 

 

病院へ訪問したのですが、入院中のその方(以下Mさん)は、自分でできることも看護師にやってもらっていました。

(お茶を飲む行為を、自分でできないと言われ、介助してもらっていました)

 

介護でいう自立支援は、これを自立阻害と判断する「甘やかし」という見方もあります。

 

これを退行と定義するならば、この行為の背景に意味はあると解釈します。

 

確かに自分でできることによる自立は、誰の目でも良いことと判断されるでしょう。

 

では、他の何ものでもない自身の目から判断したとき、その中に「さみしい」という自立しきれない感情は見えるでしょうか?

 

見える、という方は今まで高齢者の中では過半数意見でした。

 

人生の先輩である高齢者は「甘え、甘やかし」といったことは百も承知なのであって、自立の概念も感覚的に捉えているのだと思います。

 

その先の、感情的自立が成立しないことも、経験上で重々わかっていらしていると思います。

 

ただ、支援者である私たちが、思考でみえていないことが多々あるのだと思います。

 

退行現象がケースから伺えた際、

 

私はこの方にどのような「さみしさ」を抱えているかの背景に焦点をあてます。

 

Mさんは、今まで自立した生活をされてこられた上に、他の方の世話もしていた。

 

その中で、確かに万能感があったかもしれませんが、それが愛情を受けるひとつの対象であったために、

 

それができなくなって、どうやって愛情をもらえるかにもがいているのだと思います。

 

 

よく認知症と推察・診断する形に至るかもしれません。

 

しかし、その中にある「愛情欲求」をどうやって得るか、これを支援者は考えてかかわりあいをしないといけません。

 

愛情欲求は、自立を支える土台みたいなものです。

 

愛情ないと、自立支援なんてとてもいえません。

 

 

今日仕事をして、ふと思った私の意見でした。