退行現象とは、、

 

精神分析家ジークムント・フロイトによれば防衛機制のひとつであり、許容できない衝動をより適切な方法で処理するのではなく、自我を一時的または長期的に、発達段階の初期に戻してしまう事である。

 

 

wikipediaには、こう記載されています。

 

よく見られるのは、弟や妹ができた子が、お兄ちゃんお姉ちゃんになったとき、

 

母親への愛情が弟や妹へ優先的に流れてしまうことを本能的におそれるため、

 

お兄ちゃんお姉ちゃんが、おねしょや泣き出す等の幼稚な行動を起こしてしまうこと。

 

 

この、退行は子どもだけでなく、大人でも見られます。

 

そして、もちろん高齢者にも見られます。

 

本日、ちょうどそんな一面を見てきました。

 

 

病院へ訪問したのですが、入院中のその方(以下Mさん)は、自分でできることも看護師にやってもらっていました。

(お茶を飲む行為を、自分でできないと言われ、介助してもらっていました)

 

介護でいう自立支援は、これを自立阻害と判断する「甘やかし」という見方もあります。

 

これを退行と定義するならば、この行為の背景に意味はあると解釈します。

 

確かに自分でできることによる自立は、誰の目でも良いことと判断されるでしょう。

 

では、他の何ものでもない自身の目から判断したとき、その中に「さみしい」という自立しきれない感情は見えるでしょうか?

 

見える、という方は今まで高齢者の中では過半数意見でした。

 

人生の先輩である高齢者は「甘え、甘やかし」といったことは百も承知なのであって、自立の概念も感覚的に捉えているのだと思います。

 

その先の、感情的自立が成立しないことも、経験上で重々わかっていらしていると思います。

 

ただ、支援者である私たちが、思考でみえていないことが多々あるのだと思います。

 

退行現象がケースから伺えた際、

 

私はこの方にどのような「さみしさ」を抱えているかの背景に焦点をあてます。

 

Mさんは、今まで自立した生活をされてこられた上に、他の方の世話もしていた。

 

その中で、確かに万能感があったかもしれませんが、それが愛情を受けるひとつの対象であったために、

 

それができなくなって、どうやって愛情をもらえるかにもがいているのだと思います。

 

 

よく認知症と推察・診断する形に至るかもしれません。

 

しかし、その中にある「愛情欲求」をどうやって得るか、これを支援者は考えてかかわりあいをしないといけません。

 

愛情欲求は、自立を支える土台みたいなものです。

 

愛情ないと、自立支援なんてとてもいえません。

 

 

今日仕事をして、ふと思った私の意見でした。